戦後責任ということについて

1 NHKラジオの早朝番組に「今日は何の日」とかいう短い帯番組があって過去のその該当日の出来事をいくつか教えてくれる。たまたま5時台とか6時台の,その時間頃に目が覚めた時など枕元のラジオのスイッチを入れて耳にする(もちろん二度寝するが)。たまたま今日が8月15日(土)なので(今日は低山歩きに出掛けるのも暑くて面倒だし),そのまま7時のニュース頃までラジオを聞いていたが(ウトウトしていたので確実とまではいえないが),その後のアナウンサーの発言は,全て「終戦の日」と発言していた。局側で表現を統一しているようだ。

何故「敗戦の日」ではないのか,「終戦記念日」は用語のごまかしである。

 

2 「終戦」という用語は外形的,物理的事象の表現であり,「敗戦」は人為的,目的的な用法である。

視点を変えれば,「終戦」では戦争の原因と責任という問題の追及を抜きにしか,表現できない,自己表出としての言語を完結できないと思うからである。

今次大戦について,日本という国が,軍部であれ,政府であれ,天皇であれ,企業であれ,マスコミであれ,大学であれ,あるいは大衆であれ,個人であれ,どのようにかかわり,どのような責任があるのか,もっと正面から,そして問題を自己に引き寄せて考えてほしい。

敗戦後75年という区切りの良さから,マスコミでは戦争体験の風化と記憶の伝承というテーマが,度々企画され,指摘されている。それ自体は至って正論なのだが,その問題を何故もっと自分(及びその日常)に引き寄せないのだろうか。

 

3 戦争は勝っても負けても悲惨だなどの言葉は,少なくとも一般論として半分は嘘である。勝てばこんなに良いことがある,国民にはこんなに利益があるといって始まるのが戦争である。多くの人々はこうした甘い言葉(キャッチコピー)に惑わされる。確かにそう思った人も少なくないだろう。しかし,タイムスリップして具体的な場面を想い描き,自分自身やその親や祖父母の場合をできるだけ想像してみれば,大半はそのように仕向けられた社会的な流れの中で,無自覚に,あるいは妻子を守るなどという無理なこじつけや,単なる衣食住の確保というようなより実利的な動因等から,最終的には国家(という幻想と暴力装置)や社会(という国家のレトリック)に強要されて,戦争システムに組み入れられていく。多分これが戦争のシステムの大衆的実態だろう。

 

4 そうして実態の中で,戦争の責任をどう明らかにしていくかが,大切なのである。

話は飛ぶが,徴用工問題で韓国の裁判所が日本企業に対し一定の損害賠償義務を認め,原告らがその強制執行手続に入ったことについて,日本政府の対応が何とも首をかしげる。くわしくは知らないが,単に制度的にみる限り韓国の裁判所の手続は多分合法だろうし,韓国政府としては三権分立を前提にするなら,その判決の強制執行手続自体は止められないというのも正しい。

条約は国家間の合意でしかなく,国民個人の権利をたとえ財産権といえども国家が一方的に剥奪することはできない。

高度に政治的事案になると,よく日本の裁判所は「超法規的」な判断なるものを利用する。まあ裁判所がそう判断するのだから,行政府がとやかく出来ないのは,司法の独立という憲法上の要請がある以上当然であるが。

 

5 ただそうした言説は,日本はもちろんのこと,韓国でも,実際は殆んどの場合行政が司法を政治的に利用している方便だといってもよいのである。これが政治システムの実態である。

さはさりながら,政治のシステムにおいては,「建前」や「方便」は大事である。もっともそのことと具体的な政治的解決方法とはまた別である。もっと柔軟に考えればよいだけである。

例えば,韓国の徴用工問題についていえば,韓国政府は日本に対する条約上の義務に基づいて,差押物を時価の何倍を負担してでもこれを落札して,日本政府に引き渡せばよい。それだけのことであって,この問題を貿易や日本企業の国際競争力の強化にからめるなら,それはセコすぎるのである。その結果,韓国で同種訴訟が多発したとしても,それは韓国政府の手腕の問題であり,最終的には韓国民の納税意識の問題として,解決すれば足りる。

 

6 その点,ことは財産権ではなく生命身体にかかる権利である以上,広島の黒い雨判決に対する行政側の控訴という対応には,到底これを容認できない。殊に,広島県と広島市の同調には,怒りを通り越して情ない。何が科学的な基準だ。時の経過による資料の散逸を何と考えるのか。原告らは日々命を縮めている。

そもそも今次大戦にたいする国家の責任ということを,行政は一体どのように理解しているのか。

原爆被害者らは,(日本政府とともに)アメリカを被告にして損害賠償訴訟を提起しても何らおかしくなかったように思える。沖縄住民も同様である。そして空襲被害者らも同じである。アメリカの行った一般市街地に対する無差別空襲はナチスのユダヤ人虐殺と変わりない。アメリカ軍の市街地に対する空襲は全くもって不要かつ過剰であった。周辺をまず爆撃し,市民の退路を断って,続いてその内側に焼夷弾(ナパーム弾)を落していった。

また,例えば,いつも目にするのだが,小仏に向うバス路線で裏高尾の蛇瀧参道分岐の数百メートル手前車道右脇に,小さな石碑がある。その石碑によれば,8月15日の間際になって1機のグラマン機がトンネルから抜けた列車に(単に乗客を殺傷するためだけに)機銃掃射を行った。多数の犠牲者を生んだ。単なる米軍人の面白半分の蛮行といってよいであろう。

 

7 そして人道に対する罪,戦争犯罪に時効はない。

最近,かつてナチスのユダヤ人収容所の看守であり,既に90才を越えて南米にまで身を隠していた戦争犯罪者を見つけて逮捕し,ドイツでその裁判があった。刑の執行こそされなかったが,公的に有罪の判決が宣告された。戦争責任の追及は,個人に対してさえここまできちっと実行されている。況んや最大責任者である国家に対してはなおのことはっきりさせておくべきことである。日本の防衛の多くの部分を米軍に負っているかどうかとは別の問題である。過去の所業に対する責任の問題なのである。

実は,このことは東電の原発事故の責任追及についても,同断なのである。

「国」やその変異体である「社会」の存立の基盤は,まずもってその倫理的正当性によって保持されることを忘れてはなるまい。