スポーツの麻薬性について―東京五輪雑感

1 隔週の瀧行とそれ以外の休日はよく近くの山に出かけたりしてあまり家でのんびりすることもないのだが、実に何年振りかでギックリ腰が出てしまい、このところ家でゴロゴロしている。丁度オリンピックも終わった時だし、もう一度オリンピックについて書いておこう。

 

2 オリンピックというイベントのもつ商業主義と政治性については、57年前の東京オリンピックの時でさえ、その萌芽はあった。当時のIOC会長が誰だったか記憶にないが、関係要人の貴族性(特権性)は見てとれたと思った。しかし、世の中はあげてお祝い気分一杯だった。理屈ではなく、反感を覚えた。

オリンピックの商業主義とその政治利用が、あまりに醜悪で無残に立ち現れたのが、今回の東京オリンピックであろう。

 

3 にもかかわらず、いざオリンピックが始まってみると、組織委員会や政府はもとより、マスコミも善意のオリンピック報道にぬりつぶされた。オイオイ、直接(NHK)間接(民放)に視聴料を負担させられたり、講読料を支払わされているお客さん(我々)の存在はどうなっているの(世論調査とやらの多少のいかがわしさの残るアンケート結果によっても、半数位はこの時期のオリンピック開催に反対していたという)。そのうえ、何故IOCとの契約者である東京都や都民を差し置いて、国や政府がしゃしゃり出るのか。地方公共団体にすぎない東京都の資力(財政規模)をもってしては、オリンピック開催など実際に出来る訳がないので、国が予算をつけてやったから、金を出す以上口を出すのは当然だということか。だったら東京オリンピックなぞやらなければいいだけのこと。

 

4 オリンピック開催のヘリクツはいろいろあったようだが、コロナ流行の見通しの甘さもさることながら、昨年中にはそれらのヘリクツも全て潰えてしまった。経済効果どころか、間接経費を含めれば、単に何兆円もの税金が無駄使いされたのである。にもかかわらず、いざ始まってみればオリンピック一色なのである。

本当に憂うべきは、予算の無駄使いなどより、日本社会のこの風潮であり、日本人の近視眼的な忘れやすく甘い性格であり、周囲への同調化傾向である。それは更に進めば同調圧力となる。

全く傾向も態様も違うが、戦前における開戦への政治と社会の流れを思わせる。実に危険な民族的な欠陥ではないか、とさえ悲観的になる。

 

5 成程、スポーツと命のやりとりをする戦争とは全く違う(それでも用語の共通性は象徴的である)。

確かにスポーツは、好みを別にすれば、自分でも参加するなら尚のこと、他所から観戦するにしても、誠に楽しい。選手や応援者との一体感も嬉しい。その間は浮世の憂さも忘れる。でもやっぱりおかしい。

スポーツでは、この人間社会の本質的な矛盾は解決しない、世界の構造的欠陥は是正されない。わかり切ったことではあるが、スポーツによる高揚感と興奮とは「麻薬のように」これを忘れさせる、たとい一時的にせよ。こうした人間の心理的な機序についてはよくわからない。イギリスのサッカーファンのことを思うと、単に日本人の民族性を持ち出しても、その心理的背景の理解には届かないであろう。

 

6 ただいえることは、こうしたスポーツのもつ麻薬性についてのマスコミの自覚である。政治家や経済界の人士はこのスポーツの麻薬性を充分承知し、これを利用している。そのことについて、スポーツイベントを報道する側も十二分に自覚的であってほしい。何もスポンサーの名やロゴマークを写真や画面に映り込まないよう配慮するとか、その固有名詞を文章に書き込まないようにするとかの姑息な対応をいっているのではない。スポーツのもつ政治的、経済的特性に対し、自覚的に対応せよといっているのである。

 

7 オリンピックについてのマスコミの報道をみる限り、一部新聞の論評記事の取扱いを除けば、殊に新聞社の運動部の多くの記者やデスクによって掲出された記事を読む限り、スポーツの麻薬性など、どこ吹く風である。いわんやテレビなどでは、政治や経済の構造的矛盾を意図的に隠蔽するためにスポーツ映像を利用しているのかと疑いたくなるような場面もある程である。

オリンピックの様に、仕掛が大きくなればなる程、スポーツイベント報道のもつ無自覚性や無責任性がスポーツ固有の麻薬性を極立たせ、その政治性の本質を覆い隠すのである。

 

8 話を戻すが、関係者は皆、戦前昭和期の新聞や雑誌の果たした政治的役割を検証してほしい。その責任は、その記事が数百万人の命を奪った太平洋戦争での軍部の片棒を担いだからこそ重要なのである。マスコミ人がそのことについて認識していたかどうかではない、無意識だったとしても、基本的には政治的に(その客観的な効果において)正に同罪だからである。

戦後の高村光太郎を思わずにいられない。高村光太郎は結果的に自らの果した(利用された)戦争協力者としての役割を自覚して、老人一人、岩手花巻の片田舎の粗末な家に独居した、冬の寒さと粗食に耐え、自らを律した。少なくとも戦後間もなくの日共幹部より筋を通した。

同様、自らは開戦に反対したものの、一たん対米開戦となった後は南洋諸島の軍司令官に赴任し、米軍との防衛戦を覚悟して、その地で食料増産の為農業を奨励し、しかし直接戦闘を交えないまま敗戦を迎えた今村均陸軍大将を思い出す。彼は戦後自宅の庭に一坪程の小屋を建て、生涯そこに蟄居したのである。

9 事は人の生き方の姿勢の問題と、社会的動物としての人間の政治的存在の問題とは違うということである。

人の生き方としては、何とか美しくありたいとは思うが、それは随分と難しかろう。せめて社会人として、ことの実体を見分けて自覚的に生きたいと思う。それには認識の力を磨き続けることによって可能になると信じている。