福島原発事故に触発されて

1 前にも書いたが,国語を失った国家は滅びる。国家の欺瞞性という政治的テーマからすれば,それ自体はむしろ好ましいのかも知れないが,ここでは言語と文化という文化人類学的な関心からのことである。例えば民族的特性による等質的集団としてのいわゆる民族国家の存亡という視点から,国語の喪失を不幸な現象として意識している。

 

電車の車掌によるカタカナ英語の放送に対し,個人的な羞恥心を感じたり,大半の顧客に対する不便性(これはむしろ車内表示や道路標示の即解性という耳より目に対する反機能性・非実用性こそ問題なのだが)に腹を立てたりする日常に悩まされる。その背景には外国語への意味不明故の有り難さと小集団における隠語にも似た仲間意識の醸成などがあるのかも知れないけれど,どうもその本質は日本語文化への無関心にあるのだろう。敗戦国における文化的破壊の必然の流れだと言い切ってしまえば,それまでのことなのか。

 

 

2 そうした劣化した国家の国民,あるいは中央から取り残された縁辺の住民と中心に位置する優勝の住民との関係は,単に政治的,経済的優劣以上に,文化的な特性の濃淡に景を落とすことになる。例えば言葉ひとつにしても,標準語に対する方言(文化)の後退に顕著である(アイヌ語の例をとり上げるまでもなかろう)。英語に対する日本語もまた同様な命運をたどることになるのだろう。さすがに英語について敵性語などということを思うことはないが,ただ昨今の文科省や若い人達は,横文字についてどう考えているのだろう。本来縦書き文字の日本語は公式に横書きに改められ,巷には意味不明のカタカナ看板や会社名が氾濫している。それ自体はどうでもいいと思うが,日本人としては違和感を覚える。美的でもなければ,本当は機能的でもない。文科省の人達は何を考えているのだろうか。英語にしても他の外国語にしても,必要な人が必要な内容を勉強すれば足りる。そのうえ最近は基本的な事項であれば,いくらでも優秀な翻訳器があるときく。何が小学校からの英語教育か。

 

 

3 周縁と中心という点では,方言と東京弁ではない標準語(これは人造語である)との対比としてみると,ここでも方言は駆逐される。

 

たまたま数日前に3月11日を迎え,各マスコミが10年後の福島原発事故を特集していた。方言が消されていったように,原発も(危険だから当然に)東京とその近くではなく地方に追いやられた。

 

もっとも,その原発を(諸々の経済的利得にごまかされ中半積極的に?)迎え入れたのは,福島をはじめ原発立地の地元でもあった。各マスコミとも何故かこの視点を(意図的に)欠落させていた。

 

太平洋岸の東北各県は一県を除いて皆原発立地県である。例外の一県とは岩手県だが,何故岩手県には原発がないかというと,どうも岩手県での住民による原発反対運動も大きく影響していたようだ。

 

 

4 確かに福島は不運であったし,気の毒である。しかしその不幸も自ら招いた一面もないわけではないことを忘れないでほしい。もちろん虚偽情報を発信し続けた東電や国及びその情報を充分検証なしにその危険性を声高に発信しなかった科学者並びにそうしたインチキ情報を無分別に垂れ流したマスコミらの責任は重大であるが,ただそれらA級戦犯らだけで,福島のこの悲惨な情況がもたらされたわけではない。

 

そのうえ福島の現地を一層悲惨にしているのは性懲りもなく「廃炉」などという至って不確実,不安定な作業に期待を寄せているかの(みせかけの)政治姿勢(方針)を維持しようとする地元自治体の愚かさと,未だ政治権力との「会話」を望む住民らの純朴さである。自分達が実際問答無用で切り捨てられたことをまず自覚しなければならない。その原点から運動を立ち上げてほしい。そうすれば全国の民衆も少なからず集まってくる。

 

そうしてはじめて,地方が中央に拮抗することができる。私も年老いたりといえど,その一助を担う位の覚悟はある。

 

 

5 年令は重ねてきたが,私自身は今でも暇をみては近くの低山を徘徊している。一応そんなにバテずに一般的なルートをこなしているつもりだ。

 

余計なことだが,最後に2つ程不満(不平)と警告(苦言)を呈しておく。

 

ひとつは,山で会う人毎に「こんにちは」と声をかけるのがどうも流行している。たまに,あるいは時々人と会うから人懐かしくなり,あるいは心楽しくなって,山中で人に会えば思わず「こんにちは」と口に出るが,昨今の登山(?)ブームで山の中も人出が多い。一人で静かに歩きたい当方は,目礼程度で黙って通り過ぎるようにしている。

 

次に腹立たしいのは,トレッキングランとかいって山中を集団で駆け抜ける連中である。しかも一様に両手でストックを使っている。ストックはコースとその周辺の植生を荒らすだけでなく,すれ違う普通のトレッカーにとって危険でもある。それでいつもランナーが近づくとできるだけ脇に避けてやり過すようにしているが,集団で次々と来られるとたまったものではない。トレッキングランナーを集めた競技会が催されているのである。自分の山でもないだろうに。

 

そうした連中に影響されてか,一般の人達までその多くがストックを持っている。杖がなければ歩けないのなら,その分ゆっくり歩けばいいだけのこと。杖なしでは歩けないというなら,もうその様な山に無理して入らなければいい。

 

こちらはお互いに平和で静かに楽しみたいだけである。

 

 

6 たまたま土曜で近くの山に出掛けるつもりだったが,前夜の天気予報通り,雨に雷も混じる天候になったので,朝寝と昼寝を決め込んだが,時間が余ったから,こんな雑文を書いている。で,何が人間に生きることの中心かと考えたら,最初に人類時間と地球時間との極端な隔絶を思っているうちに,いや,中心より縁辺(人間時間)の方が大事だと,当たり前のことに気づいた。

 

どうでもいいこととか,嫌なことを意識的に忘れるときは地球時間を思い,楽しみたい時は人間時間を考えるということだろうか。もっとも私自身は,昔から何でもすぐ忘れるタイプで,よく周りの顰蹙をかっていた。それで日々の出来事について本質的な事柄とさして大事でない事柄に分け,本質的な事はできるだけ覚えるよう心掛けている(さして大事でない事柄は放っておいてもすぐ忘れる)。そこで本質的なことだが,人間のあらゆる場面での自由と考えている。本質こそ縁辺にあるのかも知れない。