過剰人口の犯罪性について

1 少々極端なことを書いておく。

日本の人口はもとより、世界的にも人間の数があまりに多すぎるので、これを4〜5世代をかけて、まず5分の1以下、できれば10分の1位まで減少させるべきであろう。殊に、いわゆるグローバルサウスあるいはかつて発展途上国といわれていた国々を中心に実行してゆくしかあるまい。

このまま漫然と人口増を続けていけば、様々の不都合が世界中に蔓延するであろう。極論すれば、人類はその大半が栄養不全と生物的欠陥から破滅に向かって進んでゆくしかないかとさえ思われる。人類の生物的欠陥の発現は、交通機関を始め容赦ない文明の「進歩」によって不可避かと考える(多分、まず脚力の劣化)。

そしてまた、地球自体もまた大きく変質・変容していくしかなくなるのではないかと危惧する。

SDGsなどというのは、まともな常識とある程度の専門的知識のある人には、ミミズの戯言でしかない。いわゆる似非学者やインチキマスコミの手によって、格好の犠牲者を再生産するしかなくなるかも知れない。

 

2 地球環境や生物、のみならず地球存続にとっても、人類のまともな生存にとっても、諸悪の根源は、地球上に量として異常に蔓延ってしまったホモサピエンスという生物種なのである。ホモサピエンスという生物種の質の問題以前の量的問題であり、現代は至って即物的に対応するしかないような異常な様相を呈する可能性さえ孕み出している。最も悲観的、悲劇的な対策としては、近い将来(否現在でさえも)ひょっとすると過去の歴史とは形を変えた「間引き」が必要となるかも知れない。堕胎の推奨であり、社会的弱者の放置(要するに「自己責任」という標語の横行)である。余談になるが、飢餓に見舞われた大昔の中国で親が子を食べた(もちろん他人の子と自分の子を交換した上で)ということもあったとか。中国は文明、文化の歴史的先進国なのか?などと嫌味をいっているのではない。長い人類史の中の異常な一齣が、中国が文明先進国なるが故の負の記録(記憶)として残したものでしかないといっているだけである。

いずれにせよ、過剰人口はそのうち犯罪的評価を受けるであろう。

 

3 結局現実的なとりあえずの解決策としては、人口を減らすしかない。

しかし、国や企業は人口を増やせと、真逆のことを喧伝している。要するに国民を経済の担手としての労働力としてしか評価していないからである。感情や感性、感覚に満ちた生身の人間として受け止めようとしていない。手段としての人間であって、切れば血の出る人間として見ようとしていない。しかし、真に人間にとって幸福な経済活動とは何か、という視点で考えるなら、正に人間を「目的」として対応してゆくしかない。それは何も人間の経済活動に限らず、文化的活動はもとより、政治活動においても、社会活動においても、まったく同断である。

施政者も会社経営者も、制度的存在として、人間をその制度的構成要素としてしかとらえようとしない。その方が効率的だからである。何とも寂しい限りである。

 

4 では、人間の生存とその環境との悲劇的関係をどう解決したらよいのであろうか。

当面、人口を減らす外名案はない。方法を勉強して、それを実践していくしかない。制度としてつきつめれば、教育の問題に帰着する。

「教師」とは、正に「聖職」なのである。女性が人間を生むという意味で「聖女」であるように、我々は本当に教育を担える人として教師を尊敬する。その意味では、各学科や専門分野において技術的にすぐれた「教師」を求めているのではない。ないものねだりであっても、全人格的な教師を求めている。

 

5 そこで現在の教育制度について、少なくとも公的教育に限れば、正にお寒い限りである。

私の夢は自給自足の私塾を作ることである。一応、福島の漁港の側に、それなりの面積の土地(山林)は確保したのであるが、そこまでで頓挫している。校舎や全寮制の建物を建築する費用もないし、何より同志となる教師もいない。日常の忙しさや、趣味的行動にとらわれて、私自身の努力が足りないのは、十二分に分かっている。

人間とはかくも弱い存在かと、呆れてもいる。それでもあきらめるわけにはいかないであろう。自分一代で無理なら、誰かが継いでくれればいい。切に願うところである。