正常な地球存続のために
- 2024.12.12
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1 天候不順が常態化しているのは、地球環境の変質と流動化による物理的・気象的な象徴であり、その心的な具現化である。我々は最早後戻り出来ないところにまで病膏肓に入っているのかも知れない。その原因はあげて人間の形而下的欲望と利己性にある。
南太平洋の島々の住人にせよ、北極圏の人々にせよ、また極地の白熊やら動物、植生に至るまで、人間は地球上のありとあらゆる生存や生態を脅かしている。
2 何故そんなに人間の快適性やら利便性が大切なのか、古い人間である私には全く理解できない。日本では、冬は寒いものであり、夏は暑いのが当たり前であった(個人的には東京の夏の暑さと湿気はひどく苦手であるが)。
ただ、大事なことを見のがしてはならない。私の育った昔の南関東圏などの気候は、現在と違って随分穏やかだった。それを、現在のような過激(酷)な気候にしたのは、正に利便を求める人間の飽くなき欲望であった。それはもともとは個々の人間の欲望の集団としての積み重なりでしかなかったのであるが。
政策や政治の誤りは、その結果にすぎない。
近視眼的に見えるかも知れないが、本質的には、人間の欲望の無軌道が、誤った政治と現在の地球の異常気象を招いているのである。
3 従って、地球環境の建て直しは、単なる技術や科学の問題などではない。もちろん、技術や科学的方策による改善の努力は大事ではあるが、それは所詮小手先の方法でしかない。
重ねて警告するが、かつて述べたように、抜本的解決は人口を大幅に減らすしかない。このまま漫然と人口を増やしていけば、地球と人間はやがて滅びるしかないであろう。もっともそうなれば、地球とそこに生活する「生き物」は新たなフェーズで復活するであろう(あくまで人間が他の生き物を根絶やしにしないという前提ではあるが)。
こんなわかりきった原理が、何故一般化して理解されないのか、不思議でならない。
諸悪の根源は、人間の量的過剰な存在と異質な(人間にとっては自然ないし一般的とされる)欲望である。
4 中国の一人っ子政策はいろいろと批判にさらされたが、地球や人類存続にとっては、少なくとも「政治」及び「思想」としては誤っていない。
経済的、社会的には、その性急な実施は多くの歪みを招来するであろうが、それは過渡的、技術的、政策的問題でしかない。一人っ子政策は本質的には正しい。
まずもって、人間各人がその勝手な欲望から脱却するしかない。地球環境の劣化を多少なりとも押し戻すには、そうした欲望をともかく自覚的に減縮、排除するしかない。
何故そんなに便利である必要があるのか、後代にその弊害をつけ回しする程の利便性とは一体何なのか(私自身は至って気が短いが)。時間を多少短縮したとして、それがいか程の益があるというのか。経済が発展し経済的余裕ができたとして、それがどれ程の意味があるというのか(お金は大切だが)。普通に(?)生活できれば、それでよかろうに。世の中、特にうまい物を食べて、それが何だというのか(うまい物を食べたければ料理を自分で勉強すればいい)。着飾ってみて、それがどうだというのか(但し哲学的にはファッションとは自己表出、自己表現であり、美の根源のひとつである)。確かに「住」は少々やっかいだが、その不自由も究極はイレギュラーな地球環境の破壊から防御できれば一定の不便はやむえない(そうした環境の原因は人間が創り出しているのであるから)。
5 最終的には、くり返すがこれ以上人口を増やしてはならず、いかに人口を「ゆるやかに」減らしてゆくかなのである。かりにその結果人類が滅亡したとしても(実際はあり得ないが)、どこが悪いのか(本当は地球の復活にとっては最も手っ取り早い)。これは政治や政策の問題ではない。経済的豊かさの問題でもなければ、社会的安定性の問題でもない。人間存在についての哲学や思想の問題なのである。人間存在は、物理的には地球によって支えられており、地球生態系の維持、保全は、まず人間の(勝手な欲望からの)自己抑制によってしか、本来的解決には到らない。
別に精神論を言っているのではない。経済的、政治的方策に触れる以前の、人間存在の在り方を述べているだけのことである、何が人間存在の物理的前提なのかを論じたいだけである。
6 やや話は別になるが、最近腹を立てているのは、健康保険証のデジタル化である。
私の知る限り、政府は、紙の保険証自体は全廃しないと明言していた。とすれば、部分的にデジタル化を進めるとしても、まあ大反対する程のこともあるまい、と楽観視していた。ところが、政府の裏の真意は個人情報全てのデジタル化にあったようである。
7 なぜ、国民全部のデジタル化がいけないのかというと、国家と国民の立場、地位が逆転するからである。私どもが今次の大戦で、戦闘員、非戦闘員の別なく何百(何千)万人の犠牲と引き換えに手にしたのは、戦後民主主義と日本国憲法であった。そして、その政治体制と法的根幹は、国家の下に国民があるのではなく、国民の下に国家が成立、存続する、という原理、原則のことなのである。
このことは、全ての国民が肝に銘ずべき原理、原則だと考えている。国民がなければ、国家は存続しえない(本当は全く異なるが、とりあえず国土がなければ国家が存立しえないことと同様に考えてもよい)。
8 国民のすべての情報(財産とか生年月日、性別、社会的地位等の目に見える外形的事実に限らず、極端にはその性癖、思想、嗜好、志向、指向等の内部的特性に至るまで)について、国家は国民の特性の全てを把握できてしまう。AI云々を持ち出すまでもない。
言い換えれば、国民は情報的に国家に隷属するしかなくなるのである。
恐らく、かつて歴史上存在したいかなる国家よりも、その国家は国民を全面的かつ主体的、専属的に支配できるようになるのではないか。しかも、国民がそれと気づくこともなく。
これはブラックジョークでもなければ、SF小説でもない。地球上に存続する人間(類)の生理的、精神的、内的生存条件の問題なのである。
たかが健康保険証の問題でしかないはずなのに、こんなはずではなかった、と臍を噬むのは御免である。我々は国家という制度に対しては、どれ程用心しても用心しすぎるということはない.
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