コロナの流行と政治及び個人について

1 コロナ騒ぎが持ち上がり出した頃,政府筋の発表を聞き,オリンピックに絡めながら考えていたが,結局オリンピック開催は「延期」となった。安部首相が「完全な開催」にこだわるというような表現を使ったとき,政府内部ではオリンピック開催を断念したから逆説的にそのような政治表現を使ったのだろうと受け取ったのだが,1週間と経たないうちに案の定の結果となった。

 

2 日本でコロナ報道が最初にもたらされた頃から,政府(というより安部首相)の対応は何とも往生際の悪いものであった。当時のコロナ対策なるものの政府の目的が,最終的にはその重要な柱としてオリンピック開催に向けたタイムスケジュールの調整にあったろうことは想像に難くない。

それにしても,IOC委員長の日本向け発言と他国向け発言との食い違いはともかく,コロナに伴うオリンピック開催に関して,IOCがWHOの勧告に従うとの意向を開示した頃と前後して,日本からWHOに対する確か約170億円だったかの寄付が発表された(共同通信)。まあ,いろいろあったんだろうが,もう少しスマートにやれなかったのかと思う。

そういえば,オリンピックを「興行」といっていた人も多数いる。

 

3 ところで問題はコロナであるが,何とも先が見えない。

ワクチン開発には1年位はかかるだろうし,新薬の開発も段階を踏んだ安全性確認を考えれば,やはり1〜2年はかかるかも知れない。1年後のオリンピック開催も果たしてどうか。殊にアフリカや中南米の国々へのコロナ対策支援のあり方いかんにもよるのだろうが,さて欧米や日本にどれ程の余力が残るのか。もしかすると(というよりイタリアではまさに)中国の一人勝ちになる可能性が高い(もちろん支援自体は多いに結構だが)。

NHKの朝のラジオで,アメリカの公的機関(どこか忘れた)が中国での新型コロナ報道がなされる既に1ヶ月くらい前に,同様の中国における疫病流行の危険性について,アメリカ政府にレポートをあげたが,無視された,というニュースを一度耳にした。そうなるとトランプ政権の決定的ミスということかも知れないし,これでは戦略的にも戦術的にも,とても中国に対抗できないのではないか。余談だが,確かSARSも中国発だった。余談ついでにいうと,SARSウイルスは重症率や致死率も高かったが,隠密性はなく,感染すれば間もなく発症した。新型コロナは感染しても発症しないケースが少なくないし,発症しても重篤化するとは限らず,死亡率も低い。要するに巧妙で質の悪いウイルスだということである(人的関与について若干きな臭さの残る所以でもある)。

 

4 政府とか国家という制度や虚構が頼りきれないとすれば,個人としては最終的に各人がそれぞれ年齢や生活習慣の不摂生に負けない体力を作っていくしかない。その結果としてコロナの抑制に繋げようということである。いわゆる集団的免疫力による疾病の克服である。ただその実現の為には,実に多くの人命の犠牲を強いられることになるのだろう。

もっとも歴史的にみれば,人間に限らず生物はその様にして病原菌などの攻撃から生き残ってきた。攻撃に負けた種は滅びるか変容した(増え過ぎた種が不可解な自殺行動に走るのと同様に)。宇宙の法則とか神の摂理とかいうなら,多分そうなのだろう。とはいえ人間としてはその犠牲はできるだけ少なくしたい。そこで医学的・疫学的な対応は当然の前提としても,また動物とは違って,目的的に日常の鍛錬が必要ということになるのだろう。何も大袈裟なことを考える必要はない。ラジオ体操やストレッチ,あるいは意識的な「歩行」だけでもいいのかも知れない。

 

5 免疫力を高めるということは,単に病原菌などに感染しても発症を押さえ込むとか重症化を防止するというだけに止まらないと思っている。

細菌やウイルスに感染しても,早期にこれを無力化ないし低効化するのが,免疫力のイメージとしてある。つまり,保菌者と接触しても,すぐには感染しない,感染しにくい体質になる,ということだが,そううまくいくものかは何ともいえない。細菌やウイルスの種類,生態にもよるだろうし,こちらの罹患部位の状況にもよるのだろうが,よく分からない。

それでも個人として対応できることは高が知れている。政治を担う者は正確な情報をまず開示することである。その先のことは各人で考えるしかない。もっとも「正確な情報」くらい難しいものはない。それでも政治に携わる者はそう心がけるしかないし,これを報道する者の姿勢と方法も同じである。

 

6 コロナ騒動で気にかかるのは,外国人や社会的,経済的,精神的,身体的弱者ないし不適合者及び総体としての文化に対する政治の気配りである。この点に関しても個人だけではいかんともし難い部分がある。

恐らく政治的,財政的打撃は世界的に計り知れない負荷を与えるだろう。しかし経済の側面については,食べられるうちは我慢すればよい(本当は日本の食料自給率の低さに不安を持っているが)。インフレだろうが,デフレだろうが,本質的な負荷にはならない。少なくとも戦後の混乱期を多少なりとも体験や記憶に止めてきた年代(ざっくりいえば多少なりとも1964年の東京オリンピックを知っている年代)にとっては,なんとか乗り切れる程度の負荷だろうと思う。要は経済活動のスピードを落とすことへの覚悟の程だろうと考えている。

しかし,文化的衰弱や破壊は多分全く別の様相を呈するだろう。心して欲しいところである。コロナ騒ぎで暇ができたので,そのうちまた触れたい。