新元号雑感

1 平成から令和へと、この連休にかけてNHKを筆頭にマスコミによる政治キャンペーンがかまびすしい。

 

元号と天皇制は一体的に理解されており、そのこと自体は歴史的には当然である。もっとも、さすがに皇紀(今年は多分皇紀2679年)を一緒に話題にする議論は目にしないが、元号使用が不便だから西暦表記でいこうかというなら、皇紀という表記法もありうるといえばありうる。しかしそれでは天皇神話の非科学性が際立つし、何より戦前の軍国主義のゾンビ化だろうから、これまた皇紀を思考の対象からはずすのは当り前ということになる。

 

 

2 問題は何が気にかかるかというと、天皇制に関する報道(ないしその不在)である。天皇、皇后をはじめ個々の活動(躍)ではなく、制度としての天皇制をどう報道し、どう報道しないかは、マスコミも頭の痛いところであろうことはよくわかる。歴代天皇の個人的な人柄などではなく、制度としての天皇制を正面から論じた場合、現政権の意向からその報道規制を招くことを危惧して、過度の自主規制に終始せざるを得ない、というところであろうか。

 

それにしても、マスコミ人としては情けない話であろう。報道規制とか特定の「世論」がやばいというなら、毒にも薬にもならない皇室報道にここまで時間を割かなければよいだけのことである。そしてその先には憲法改正の政治日程が透けてみえるし、その為の天皇制利用ないし目くらましとしての皇室報道が気になるのである。

 

 

3 天皇制について、誤解を恐れず議論しなければならないことはいろいろあるが、少なくとも法律家である限り、次の2点は必須であろう。

 

ひとつは帝国陸・海軍の最高司令官としての昭和天皇の戦争責任である。何故マスコミはこのことを敢て除外しようとするのか。最早マッカーサーが日本を去って久しいのである。現天皇制は当時の日・米両政府の(方向が違うとはいえ)政治的思惑が(暗黙のうちに)共振したからであるが、日本が独立して(実質かどうかはひとまず置くとしてここでは文字通り論ずれば足りる)、憲法上「自由な」報道は保証されたはずである。敗戦時の政府はどの様な形であれ天皇制の存続を至上命題とし、米国は占領政策として天皇制の利用に着目するとともに、戦争放棄と国民主権及び基本的人権保障の原理を憲法上明記したかった。そしてマスコミは「建前」の大切さを忘失していたのである。

 

 

4 そこで建前上避けて通れないのが、天皇制という憲法自体の絶対的矛盾である。憲法は基本的人権として、人は全て平等であって、身分や門地によって(特に国家から)差別されないという原理を明言した。しかし、天皇制は最も重大かつ明白な門地や身分による絶対差別そのものである。一方で、皇族、就中天皇には近代市民法的な基本的人権の保障は(制度上可能かどうかは別として、皇族を離脱しない限り)充全には存在あるいは機能しないのである。最も中核的な基本的人権である思想信条の自由や表現の自由も存在しないか、制約される(歴史的には、単に統治の手段にとどまらず、天皇制自体がひとつの宗教でもあるからである)。

 

ここで混同してはならないのは、昭和天皇の戦争責任とは全く次元の異なる問題であるということと、また同様に現憲法が象徴天皇制をとったということとも峻別して論じられなければならないということである。今ここではっきりさせておかなければならないことは、まず建前としての国家の根源における原理、原則なのである。その点をはっきり自覚しないまま象徴天皇制を論ずるのは危険だというだけである。

 

 

5 量の変化によって質的に転化するという議論も、ここでは慎重でなければならない。

 

量の極大化が質的変化をもたらすというのはよく見られることである。殊に政治や経済や社会現象としては、ごく一般的なことといってもよいであろう。

 

では量の極小化によって、それは質的に無視すべき事柄になるかというと、にわかには同意できない。つまり、日本の全人口に占める皇族の数が極めて少数である、ということをもって、その存在は無視すべきか、という議論である。ことが単なる政治あるいは社会の現象としてのみ扱えばよい問題というならわかるが、ここでの問題提起は、国家のあるべき姿としての原理・原則なのである。天皇制について、現憲法の中でどのように位置づけるべきか、という建前(思想、哲学)の問題なのである。

 

その意味で、この際(令和のはじめに該って)我々法律家はこれらのことについてもっと真剣に思考をめぐらすべきと思う。

 

単に憲法解釈的に考察するということに止まらず、近代市民法生成の過程に遡った歴史的考察と、更にその現代的課題を踏まえた議論を期待するところである。