ロシアのウクライナ侵略をみて

1 最近は何かと行動するのが面倒くさいと思うようになった。年とった証拠か、それとも達観の境地を得たからなのか、などとごまかしている。

ただ、ひとつ心掛けているのは、行動の基準として、そのことが命にかかわることか否か、というのが大事だと思っている。この基準によれば、私事の殆どはどうでもよいことになる。国(公)事に関してはそうではない。

命にかかわる大事が公のことに関するのであれば、個々人が避けることなく真剣に向き合うしかない。何ができるかと考え、それが(私のような怠け者には)無理だと思っても、それなら次善を探りたい。少なくとも声をあげるくらいなら出来そうだ。何か発信してみようということになろう。

 

2 話は飛ぶが、昔の歌で、題名も忘れ歌詞も覚束ないが、確か鶴田浩二とかいう映画俳優が「何から何まで真暗闇よ 筋の通らぬことばかり 右を向いても左をみても バカと阿呆のからみ合い」というような歌を歌っていた。丁度、大学闘争や70年安保などが連合赤軍事件を機に一気に消滅し、思想的アパシーを招来した頃、学生等の間で流行った。

世の中、豊かになり便利になったが、社会構造の本質は少しも変わっていない。豊かになった分、それだけ本質はより巧妙に隠蔽されるようになった。これはどうも社会的、歴史的原則らしい。

 

3 その最たるものが戦争である。21世紀もその5分の1が過ぎ、さすがに戦争などという愚行に対する認識(評価)も一般化したと思っていたが、ウクライナに対するロシアの侵略戦争を目の当たりにして、暗澹たる思いにかられた(もっともこの戦争の本質は言う程巧妙な隠蔽もなければ、複雑な工作もなさそうだが)。

多くのマスコミ(に限らず世の論評や市井の会話に至るまで)はプーチンという特異な権力者の特殊な人格に着目して、戦争の原因を解説しようとしている。確かにそれもひとつの手法であろう。しかし、それだけではない。原因を作っているのは、プーチンとその取巻だけに限らない。ロシアの国民全体に視野を広げて、ウクライナ侵略の原因を論じなければなるまい。

 

4 国民大衆を含む関係者が、この戦争に強く反対できないというのは、単にプーチン権力による命にかかわるような国家暴力装置の強圧に抗し難いというだけではなかろう。プーチンの暴挙を容認する大衆的イデオロギー(思考方法)でもあるのか、民意を排除する組織的仕組(例えばかつての日本の隣組あるいは権力による特異な情報操作)が存在するのか、教育が未熟ないし不良なのか、それとも帝政時代から続く権力に従順な民族性の残滓でもあるのか(多分権力による情報操作が主因だろうが)。

よくわからないがここでふと思うのは、先の流行歌の歌詞である。正にバカと阿呆のからみあいなのか。権力者同士や権力者と被抑圧者の間でさえさまざまの関係はあろう。

 

5 ウクライナ戦争を契機とする今後の国際的政治方針としては、戦争犯罪者の断罪と国連の改廃であろう。戦犯の断罪は、ロシアの政治体制の変革が可能なら、自国でプーチンらに対する制裁を実現することである。その変革ができなくても、国際的に思想的、政治的、社会的糾弾であり、何よりロシアの経済を崩壊させるまでの経済制裁の実行である。天然ガスがどうの、原油がどうのと、制裁する側の不都合は我慢するしかない。ことは人の命をもてあそんだのである。これは民主主義国家を自称する側の覚悟の程の問題である。

国連改革はまず常任理事国制の廃止か、少なくともロシアの非常任理事国化である。この制度は第二次大戦の遺物であって、今やその制度的必然性もない。それが出来ないなら、国連を脱退してでも新組織を作るまでであろう。正当性のない組織は、いずれ消滅する(この問題は別稿で論ずるべきだろう)。

 

6 とはいえ、国際政治は無論のこと、政治行為とはそれ程単純ではありえない。恐らく100年単位で物事を見ていけば、一定の大きな流れは変わらないだろうが。

しかしことウクライナに関する限り、ロシアの暴挙はそう長くは続かないと思われる。プーチンの行動があまりに時代に逆行しているからである。どんなに圧殺しても反プーチン派は早晩力をつけるだろうし、それはプーチン近辺(プーチンの現協力者)にまで及ばざる得なくなる。そうでなければ側近や協力者も生き残れなくなるだろうからである。その意味ではロシアの内部崩壊は時間の問題と思われる。かりに内部崩壊を免れたとしても、外圧がプーチン存続を許さないし、そしてまたロシアの国力はウクライナとの長期戦に耐えられない。従ってロシアにとってどれだけ早く戦争を終結させられるかは、ウクライナ側の物資補給力と情報取得及び戦意いかんによることになろう。

 

7 昔見た「地下水道」という全く救いのない戦争(レジスタンス)映画(「灰とダイヤモンド」と同じ監督)を思い出す。現在と当時とが決定的に違うのは、情報の量と速度が民間と国家で、あるいは小国と大国で圧倒的な差がなくなっていることと、小国ウクライナへの補給や情報力の方がロシアよりはるかに有利だということである。その意味でウクライナの官(軍)民による抵抗が1ケ月を越えてもてば、ロシアは1年分位の負担を強いられることになるだろう。現在は、情報戦においても補給戦においても、ウクライナ側がロシアを凌駕している。

人の生き死にそのものである戦争を外から話題にして論ずる程無責任かつ恥ずかしいことはない。私自身も慙愧に堪えない。せいぜい連帯のカンパを送るか、この一文を発信する位である。それでも大海の一滴となれれば、ほんの少しの歴史の進歩を信じられるだろう。

 

8 しかし、翻って将来日本が戦争に巻き込まれるようなことになったらどうする?全くあり得ない話ではない。その種はある。その時ただ殺されることだけを抵抗のヨスガとするのだろうか、多分私はそれには我慢できないだろう。そうすると非武装中立などとの発言では対抗できなくなる。恐ろしいことだし、悲しいことだ。どの時期からどの程度・態様の武力を想定するのか?

今のところ、世界の政治、経済と軍事の全般に亘って神経を研ぎ澄まして、勉強をしておくしかない(勉強しておくことそれだけでは無力だが、時に応じ対応はできるようになろう)。後は経済力をどのように養うかということになる。ひとつ書き忘れたが、安倍前首相の失敗にもかかわらず、北方四島の返還は多分今後やりやすくなるのではないかと考えている。

それにしても、ロシアからの移民作家・アシモフの「われはロボット」ではないが、「ロボット工学の三原則」に則るロボットに政治を任せられたら、人間はどれ程幸福になれるだろうかと、夢想してしまう。