政治的判断といわれるもの

1 相変わらず途切れ途切れの発信で恐縮している。

ウクライナでは依然として深刻、不当(法)な戦闘が日々くり広げられている。状況は一進一退といわれればそうかも知れないし、他国のことといわれればそうなのだろうが、軍民を問わず現地の人達のことを思うと何ともやり切れないものがある。

ロシアに対する大規模かつ断乎とした経済制裁を続けられるなら、ある程度の遅速はあっても、解決への見通しが難しいとは考えない。ただ和平仲介の労をとろうというトルコやインドにしても(トルコの大地震の影響を織り込もうと、世界一の人口国となったインドの諸々の負荷の増大を想定しようと)、仲介国は、ロシア・ウクライナ両国の疲弊を見すましてから本格的な外交活動に入ろうというところのように見受けられる。

そして何より中国の動きが見えない。

 

2 そもそも大前提としての経済制裁も、世界的にはもちろんのこと、ヨーロッパやアジア(日本も含め)というユーラシア大陸規模であっても不協和音が強く、アフリカや中南米諸国まで視野に置けば、ロシアに対する経済制裁などどこ吹く風になる(中国はむしろロシアの協力国という一面が大きい)。経済活動の前においては、理念とか正義や人倫というような抽象的価値論はさて置いて、ということになろうか。

寂しい限りである。

 

3 とはいえ、つい先日、日本(経済界)も有力メンバーとして、世界規模でのウクライナの復興会議が開催された。もっともその世界的会議の開催も、その動機は経済復興への「協力」という、正しく「復興」が金の成る木だからであろう。何となくさもしいし、それが企業とか会社という世界の特性だといえば、その通りなのであろう。

しかしそれは、根本的に誤っている。

 

4 その原理的誤りは、人間存在に対する誤謬や不完全性が見過されていることにある。実は、生の人間は必ずしも功利性を行動原理に置いているものではない。人間は、恐らく解析不能な諸々の、時に相反する感情的衝動や感覚的認識を基盤に、具体的行為を発現していると理解すべきなのであろう。

この先書き進めようとしているうち、別の用事で原稿を中断して、そのまま帰宅してしまった。ところが、週末から日曜にかけて、突然圧倒的ニュースがかけ回った。ロシアの民兵組織ワグネルの創立者プリゴジンがプーチンに叛旗を翻した、というのである。

 

5 しかし、今日はごく近くの山を歩いて(というのは、温泉の回数入場券を、つい魔がさして買ってしまったので、年内消化を目指して出掛けてきた。天気もこの時期にしてはまあまあだったし)、そして山から帰って昼寝してしまった。

現時点の情勢は、ラジオニュースによれば、プリゴジンなる御仁は、モスクワ進出を早々にあきらめて、ベラルーシ大統領と協議して、そちらに向かったようである(しかし、その後暗殺をおそれてか行方不明)。この御仁は、やはり軍人ではないな、という感想である。叛旗を翻す以上、政治判断としては、まず軍事的見通し(資金手当も含め)の上に立って軍事行動を起こすのが通常であろう。似て非なるものではあるが、なんとなく西郷隆盛や2.26事件を思い出した。

 

6 しかし、このワグネル騒動は、政治的には、経済制裁(ロシアには毎月1億ドルの支出を強いているとか)以上の効果を与えたかも知れない。

プリゴジンの言うには、プーチンのいうウクライナ侵攻の理由は大嘘だと暴露した。本当の理由については、単にプーチンの個人的事情によるかのような発言をしたようだが、その内容を更に具体的には明言していない(多分自身の命にかかる保険であろうか)。「それをいっちゃあおしめぇよ」というところか(この点もあまり軍人らしからぬ言動か)。

そうであっても、ロシア軍やロシア国民の士気に与える政治的効果は大きかったであろう。今現在、直ちに彼らの士気にどこまでネガティブな効果を与えうるかはわからないが、数ヶ月後、あるいは数年後に波及する政治的効果は、おおいに期待してよいかも知れない。

結局、国民の厭戦気分の増大は、終戦への最大要因になるであろう。

 

7 プーチンやプリゴジンに限らず、政治的指導者の政治的判断の基礎あるいは下地にあるのは何なのだろう。

何より政治的、経済的利害得失なのだろうが、それは後付の理屈のような気もする。決断力とか判断力とかいう理性的能力もさることながら、実質的にはその判断者の素質、なかんづく最終的には感覚的、感情的素質のような気がする。この部分では、いわゆる民族性とか国民性とかいわれる社会的、歴史的要因が少なからず影響しているのだろうと思う。

 

そのうち、もう少し具体的に考えてみたいと思う。