安易な同調と危険な社会

1 ファッションに対する関心がない訳ではない。ファッションは本質的には自己表現あるいは自己表出であるので、時代により国により、時により場合により、人の数だけ様々であって当然である。

ところが、日本(人)の場合(別に国外の事情がわかるという程ではないが)、何故か妙に似通っている。稀に個性的な人を見かけるが、至って稀である。本当に時々であるが、失礼を省みず見惚れる。服の形だったり、色使いの妙だったり、頭髪の刈り方だったり、晴天の日のゴム長靴だったり、持ち物の斬新さだったりと様々であるが、それなりに面白いものである。

2 それでもその様なケースがごく稀なのは、多分日本人の伝統的な感覚や、性格、あるいは思想に根づいて、広い意味で日本人は自己表現が苦手だからなのであろう(実は私も同様であるが)。

それなりにつらつら考えてみると、重要な思想的要因として、同調、調和の重視・尊重があると思われる。そうして生きていく限り異端として浮き上がることがないので、安心、安全で、安楽で、快適である。

しかし、よく考えてみれば、その様な快適さとやらにいか程の価値があるというのだろう。少なくともそうした価値より、不安で不快で危険(戦前とは違う)であっても、周囲と同調することなく、スリリングな自分だけの生き方を追及した方が余程楽しいだろう。そうなってくると、日本に特有(と思える)の社会的な同調圧力などとは一切無縁な生活を送ることができる。人に迷惑をかけなければ、どう生きようと、まさに「カラスの勝手でしょ」の世界である。

3 コロナ騒動などをみていると、マスクにしてもワクチンにしても、手洗いだろうがうがいだろうが、何ともうるさくて不自由な社会だなと思う。コロナにかかる人はかかるしかないし(ウイルスの方も弱毒化して種としての生き残りをかけているだろうからそれ程危険ではなくなりつつある)、発症が嫌なら基礎体力をつけ、免疫力を鍛えるしかない。それだけのことであって、新聞やテレビ、ラジオなどでいちいちトップニュースになること自体、うっとうしい限りである。つくづく日本は平和だなと思う所以である。

4 ウクライナのことを考えると腹が立っていかんともし難い。世の中には様々の不正義やら不条理があるが、この21世紀になって(アメリカのイラク戦争が最後かと思っていたが)国家規模でこの様な蛮行が罷りとおるなら、政治や社会、ひいては人間の進歩というのは一体何だったのだろうと、暗澹とした気持ちになる人は沢山いると思う。

それはひとりプーチンという闇組織の首魁の個性によると言ってしまったら、それで歴史の「進歩(?)」も終わるのであろう。やはりその依って来たるところをきっちりと提示できなければ、第2、第3のプーチンが出現し、その被害者や被害社会が後を断たないのであろう。

5 プーチンを生んだ歴史的、社会的、民族的土壌は何か。ロシア人の農民性(よく言えば堅実性)と共に、歴史によって刻まれたその民族的従順性にあるのではないか。

もう少し角度を変えて見直してみれば、実は日本人と同様の周囲への同調性、集団的統一性への付和雷同的な安心感によりかかった安直性こそがロシア人の本質的な民族性(国民性)ではないのか。

のみならず、つい200年位前までは、日本には実に多数の知識階級としての「武士」がいた、また寺子屋教育を受けた多数の庶民もいた。しかし、ロシアには、国民性として定着しうる程に思想的存在としての「サムライ」はいなかったのではないか。即ち、量的にはその殆どが教育を受けていない農民ばかりであったのであろうと思われる。

6 となると、日本人以上にロシア人はよく言えば堅実であるが、(教育の恩恵のない)ただただ従順な被支配者農民がその殆どを占める民族ではなかったか。

その様な民族的(国民的)土壌の中に、ひとりの自己主張の強い(要するに声の大きな、そして狡猾な)者が現れれば、殆んど全ての農民はただこれに従っていくだけであろう(かつての何とかというロシアの大帝の映画の一シーン、延々と続く農民の行列を思い出す)。そうしたリーダーの思想なり指導の内実や背景に思いを到すこともなく、殆どの国民(農民)はこれについてゆくだけである。

7 面白いなと思ったのは、余程体制側(プーチン)の脅しと統制が効いていたのか、ウクライナ侵略当初(実は多分現在でも)その不正義と背徳性に対し公然と反対を唱える報道機関も、学者も、政治家も、学生も、宗教家も、そして経済人も、少なくとも我々国外からの目には殆んど映らなかった。正に全体主義国家の面目躍如たるところである。結果は人権無視の危険な社会しか招来しない。

(実は本稿は5月の連休の頃書き出したが、忙しさにかまけて途中なんとなく忘れていて、夏休みが近づいたので、また思い出して書き続けたため、無理に2つの文章をつなぎ合わせた感がある。)