母国語を知るということ

1 日本軍が東アジアの国や地域(朝鮮、台湾、満州等)を侵略した時は、まず相手国の母国語を奪うことから始めた。このことは、日本に限らず、スペインでもイギリスでもフランスでも皆同様である。言語はその国や民族の文化の中核であり、本質のひとつだからである。被支配民族は言語を侵害され、やがてその言語が滅びるに従って、その文化も衰退、消耗し、文化としての死を迎え、同時に民族や国家として滅亡してゆく(もっとも、それが人間あるいは人類にとって直ちに不幸であり、退化であるとは限らないが)。

 

2 最近至るところで横文字が氾濫している。もちろんその大半は英語である。それが和製英語であったり、カタカナ表記であるうちは、意味がよくわからないなと不平を言ったり、気取ってやがると思う程度ですんでいた。それがやがてアルファベット表記になり、駅や電車の行き先表示という、日常的な場面で用いられるようになり出し、不便極まりなくなってきた。急いでいる時など、駅の電光掲示板などを見ても、瞬時に判断できないのである(まあ年のセイもあるが)。

そもそもアルファベット表記というのは、漢字(かな交り)と違って、ひとつの意味を表現するのに多くの字数が必要となり、その分限られたスペースでは一文字一文字が小さくなる。従って即時全体としての言葉のまとまりが把握できない。このことは、アメリカで車を運転し、道路標識や行先表示などの路面看板を識別しようとすると、すぐに実感できる。英語圏で育った人であれば、フレーズのひとかたまりを多分映像や形象として記憶し理解するので、それ程時間を要しないのであろうが、こちらはそうはいかない。車のスピードを相当落とさない限り、あっという間に通りすぎてしまう。

 

3 そのうえ表意文字と表音文字の違いも大きい。成程、表音文字の方が簡便であり、科学や技術表現としては効率的なのかも知れない。ただ表現の深みとかニュアンスとか、面白味とかなるとどうだろうか。英語に限らず、それでなくても外国語の苦手な人間のいうことなので、比較文学論などとは全く無縁であるが、何となく実感として、日本語の表現力の豊かさは、中国語(同じ表意文字だが)や英語に勝るように思われる。日本語は漢字かな交りという表意文字と表音文字の混合体だからである。不勉強な者の偏見にすぎないのかも知れない。

ただ、新古今和歌集などを少し読んでみると、800年以上も前に、モダニズムを先取りしているのかと思える程に、言語表現が複雑で多層的であり、非常に技巧的である。もっとも技巧的な言語だから他言語に較べ勝れているというものではないが、表現の面白さはより幅が広がろう。

 

4 最近の雑感を2つ。ひとつは、前述の駅の行先等の表記に関連して、車内アナウンスに対する異論である。先日、車掌がいかにも一所懸命いわゆるカタカナ英語でアナウンスをしていたことである。日本では忖度だとか、気遣いだとか、あるいは空気を読むなどの用語、時には思いやりなどといういかにも歯の浮きそうな中身の乏しい言葉がはやっているようだが、私にはどうも馴染めない。大体がしてカタカナ英語がどれ程通じるものかはわからないが、カタカナ英語の車内アナウンスなどは思いやりなどとは無縁であろう。外国人も日本に行く以上、遊びに行くにしても最少限の日本の言葉位勉強してゆくのは、覚悟の上だろう。それよりも今は伝達機能として比較的優秀なスマホ翻訳器もある。外国人に対してはもっと大切なところでの「思いやり」があればよい。

 

5 ふたつ目は、小学校での英語の授業である。そんな暇があるなら何故日本語を教えないのかわからない。中途半端な外国語授業など時間や予算の無駄遣いなだけでなく、生徒や日本人教師の精神や心の荒廃を招くだけであって、時間の無駄であり、全くのナンセンスである。日本語の読み書きも殆ど出来ない生徒に、英語を教えてどうするつもりか。今やいい大人でさえ、日本語の核心を忘れたか、これをまともに使えない時代である。

文科省官僚らは、高邁にも日本の国なり日本の民族(はたしてどう定義するのはともかく)の消滅を目指したいのかとさえ思う。ビジネス英語はその関係者が勉強すればいいだけのことだし、一方で今後更に使い勝手のよい小型翻訳機(器)が出回るであろう。ビジネスマンが英語を勉強するにしても、ちゃんとした日本語のわからない日本人が外国語を勉強してどうなるのだろう。言語の指示機能としては翻訳機(器)で充分であり、それ以上の文章も会話もものにはなるまい。従って、心の通じるビジネスの実現など望むべくもなかろう。

 

6 本来言語の本質として伝達機能(指示表出)は重要であるが、同時に言語には言語主体の自己表出というすぐれて主観的、主体的な本質がある。この本質故に言語文化、言語芸術が成立してゆく。言葉を媒介とする主観の、単なる機能性を超えた本質的共有とか共感とかが可能となるのである。