馬毛島の活用について
- 2019.03.11
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1 このところ沖縄の住民投票の結果とともに、辺野古の基地新設についての論議が続いている。国側の発言をきく限り、既成事実ありきで、沖縄県民のみならず日本全体の「民意」も歯牙にもかけていないような対応である。日本における「直接民主主義」という制度の精神・趣旨の定着とその実効化について、公私を問わず日本では随分未熟だなと思わざる得ない。未だ政治における個人の定立が曖昧だからなのだろう。個人があってはじめて国家とか(政治的)社会とかが存在するのであり、その逆ではない。そしてまた、個人の側にもその認識が薄いように思われる。
2 住民投票における回答欄に(賛成・反対の)「どちらともいえない」との選択肢を加えざる得なかったことと、現に「どちらともいえない」との回答をした有権者も棄権者と合わせるとごく少数とはいえなかったことの意味するところは、さまざまな宣伝や利益供与という国の後方撹乱が功を奏したというだけではないであろう。沖縄県民をしてさえも、政治的選択における個人意識の重要性を思想化できていないからでもある。本来自分のこと、就中極めて重要なことでありながら、「どちらともいえない」というのは、実感としても、政治思想としても、どうでもよい事柄に関する態度決定の場面のように受けとっているかに見える。
もっとも、国による利益誘導と各自治体への説得は、まことに強烈だったようであるが。
3 ところで、何故日本は米軍のために基地を提供しなければならないのか、殊に基地が何故沖縄に集中するのか。
戦後75年近く経て、何故に半世紀も前の旧態依然とした安保条約を日本人(日本政府)はかくも熱心に遵守し、強烈に支持するのか、多分現代版世界七不思議のひとつであろう。
見返りとしてアメリカに国を守ってもらっているから。まさか日本人は本気でそのように信じているわけではないだろう。米兵こそいい迷惑であろう。他国の為に何故米兵は命を的にするのか、そんなことを要請する日本人こそ非常識であろう。それでなくても、自分のことは自分で守るというのが、アメリカンスピリットの社会におけるひとつの現れであるはずである(ライフル協会のロビイ活動はともかくとして、それ故銃の個人保有が容認されてきたのではなかったか)。
個人の問題から国家の安全保障という政治問題に拡張してみても(もちろんそんな単純な話ではないが)、このことは、多分アメリカのみならず世界一般の多数派の認識と思う。では日本人だけがアメリカに甘えているのか。そんないい加減なことではない。
4 結局、経済的利害得失を秤にかけた、というのが日本政府の答なのだろうが、本当にそうか。自国の安全を他国に委ねるにしては、相当思い切った判断だ。それだけではなく、対価的にも釣り合わないし、現実性にも乏しい。というより単なる政治スローガンでしかなく、却って国民や国家の思想的拠点を掘りくずすものでしかない。
現在の日本の安全保障について、①対米依存が経済対価的に釣り合うか、②アメリカによる防衛に現実性があるか、③政治思想としてどうか、言いたいことは山程ある。①については、個別実証的に検討しなければなるまい。②については、将来の国家間紛争の発生確率からその態様に至るまでできる限り網羅的にあらゆるケースを想定して研究する必要があるが、アメリカによる(全面)支援が期待できないケースが想定されるなら、①の結論は殆ど合理性を失う、つまり経済的な均衡ないし利益は意味をもたなくなる。
5 気になるのは③であるが、まさに究極の選択として、理論的に単純化するなら、(イ)積極的か消極的かは別として、相手(国)と武力をもって戦うか、(ロ)逃げるか、(ハ)ひたすら耐えるか、の三択であろう。但し、(ロ)の場合、国家は物理的に逃げられない以上代りにいくら金を積んでも、あるいは領土を割譲してもダメなら、結局(イ)か(ハ)に帰着する。もっとも、日本がアメリカの51番目の州になるなら別の展開にもなろうが、民族主義者の私としては、てやんでえべらぼうめの選択である。(ハ)も気短かな私には多分我慢に耐えられないだろう。ただ、(ハ)の選択は極めて哲学的であり、ある意味非常に合理的である。その代り、恋人だろうが妻子だろうが、親兄弟であろうが隣人・友人であろうが、もちろん自分自身であっても、命を含め全てを侵略者(国)に差し出す程の覚悟が必要である。ただ、人の命といえども定量的に判断するのが「政治」であるとすれば、その方が人命の量的損傷が少ないという意味で、至って合理的な賢い判断なのかも知れない。
しかし、(イ)を選ぶなら、核爆弾の開発も選択せざる得ないかも知れない。ただ、(イ)でも(ロ)でも(ハ)でも、基本的には、(あ)人工衛星を主とする高精度の情報収集と分析及び無線通信のハッキングと偽情報の発信と撹乱は、国家戦術として不可避である。(イ)を選択するなら、(い)兵器的には軍艦や戦闘機などより潜水艦のほうが経済的にも軍事的にもより有効性が大きいだろう。軍隊の射出能力は不要だろう。そして当然ながら、攻撃的にも防御的にも高精度ミサイルの開発保有が前提となるので、開発を含め随分金はかかる。しかして話はまた①〜③に戻りそうである。
6 間を飛ばして、また議論を辺野古の米軍基地新設に戻すが、安保条約の廃棄、存続のいかんにかかわらず、地球や環境に対する人間のかかわり方とか責任という至って非安保的な視点からみても、安保条約の存続を前提としてさえも、その建設は全くもって犯罪的である。
日本の南方あるいは西方々面からの軍事的脅威に対抗するにしても、もはやその戦略的・戦術的拠点は沖縄のみにこだわる理由はない。物資や兵員の移動能力は飛躍的に増大している(安全性はともかく、オスプレイの開発然りである)。米軍自体も沖縄から自国のグアムに兵員を移転している。そもそも21世紀以降は国家間の大規模な武力行使の確率は圧倒的に少なくなっている。実は国家間紛争さえ、これからは直接的な武力行使より、間接的あるいは不可視的なゲリラ活動(物理的な力の行使さえ不必要な)を手段として、自国に有利な解決を目指すであろう。即ち、大規模な軍事射出能力など、かつての帝国海軍の大艦巨砲主義にも等しい。恐らく実質的な国家間紛争は、戦略的には経済戦争として、戦術的には情報戦として遂行されるであろう。
7 そうした長期的認識を更に極地化すれば、「沖縄」の軍事基地の必然性は乏しい。
そこで、かつてごく一時的ながらかかわった馬毛島の私企業からの買収が昨年実現したときく。それなら普天間や辺野古の代りに何故馬毛島を活用しないのか。岩盤で形成された平坦な島であり、馬毛鹿をどうするかの自然保護的問題を除けば、種子島に近い海上の無人島であって、米軍、自衛隊ともに供用できる程の広い面積があり、海面下に出入口をもつ潜水艦基地をも設置できる地形である。
馬毛島は狭い日本の中で、南・西方々面の軍事基地としては適地である。多分地下工事を除けば、飛行場とその付属的な地上設備の建築に、そうそう時間も経費もかからないはずである。私に言わせれば、その為にこそ馬毛島の買収を計ったのではなかったか。それとも、国は別の思惑と目的の下に馬毛島買収を進めていたのだろうか。
いずれにせよ、沖縄県民の忍耐にも限度があろうし、また辺野古の海は日々破壊されている。その意味では、政府は断乎たる決意をもって(責任者の首をかけてでも)辺野古から馬毛島への変更を交渉する外ないのである。さもなければ、沖縄の日本からの独立まで視野に入れねばならないのか、危惧するところである。
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