科学の発達とは
- 2019.01.08
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1 科学とは何かという設問については、様々な視点から様々な答があるだろうが、ここでは私なりの視点で考えたい。
科学は人間にとって不便を解消し「便利」を実現するための道具ではなく、その体系でもない。人の「幸福」の実現を目的とし、方法的には人と宇宙(地球や他者)との調和によって実行されるのである。
その意味で、自然科学も社会科学も常に統合的に総体として理解されていかなければならない。
2 世の中そんなに便利である必要はない。少なくとも今の日本は充分すぎる程に便利である。
本当はできるだけ自分の体と頭を使えばいい。健常者が駅のホームとの上下のためにエレベーターを使っていたりするのを見ると、何とも贅沢なと思う(解決は簡単で、エレベーターの扉に健常者の方はご遠慮下さいと書いて、昇降速度を大幅に落とせばいい。もっとも最近のビルなどでは階段の場所がすぐわかならいが)。時間に追われるならともかく、東京の私鉄の一駅位歩けばいいのにとも思う(バス停じゃないのだからそんな近距離に鉄道の駅など造らなければいいだけなのだが)。
私自身は、大脳に近接する電磁波の影響からの生理的保護及びプライバシー保全という生理的及び社会的なそれぞれの事情から、最近はテレホンカードを持ち歩いている(もっともこれまた駅や裁判所などにも公衆電話が殆ど見つけられない。ちなみに、スマホについてはテレビ普及の頃の「1億総白痴化」といわれた社会批評を思い出す)。
身の回りにあふれる電化製品などには使い方も充分わからない商品(スマートフォンもそのひとつのようだ)も少なくない。笑われるかも知れないがドアにつながっている受像器つきのチャイム(これは多分あった方がいいが)でさえその使い方がよくわからないので、面倒だから家ではあまり使ったことがない(いつも部屋から玄関まで逆ピンポンダッシュ)。
3 自然科学のあらゆる分野は日進月歩で、生活は日々目まぐるしく「便利」で「快適」に変化している。けれども、この快適さが人間の幸福にとっていか程の意味があるというのか、時々真剣に考える。一方で世界のどこかでいつも戦争やテロという名の殺し合いやらがあり、それへの恐怖に戦いている人達がおり、また世界中で恐らく非常に沢山の人が今なお飢餓に命を落としている。ただただ、腹立たしい限りである。
人為的な、あるいは目に見え易い戦争やらテロやら飢餓やらは、また別途の視点が必要になろうが、ここではいわゆる先進国における自然科学の非常な「進歩」による人間や地球や生き物の危機について触れておきたい。
4 ひとつは、監視社会の進行である。監視カメラの完備もさることながら、日常的な電波の傍受、盗聴がある。その対象は軍事機密や産業技術に限らない。個人の生活、嗜好、そして思想にまで及ぶ。スマートフォンだとか、クレジットカード使用だとか、いずれもその記録から簡単に個人の生活や嗜好をのぞけるし、その集積の分析なども容易である。サウジの皇太子とやらの暗殺関与なども、世界中で本来の「極秘事項」が一早く解説される時代である。
それはそうであろう。何重にもバリアーを張りめぐらした多くの機密情報さえ、今や少々の時間があれば進入して解読可能のようだ。ただ、権力者間の看視やら騙し合いなら勝手にしやがれであるが、看視や盗聴の対象が個人に向けられれば、もはや個人のプライバシーなど吹きとんでしまう。本人が気づかなければそれまでかも知れないが、なんとも不幸な人間社会である。
できれば携帯電話など使わない方がいい、という気持にもなる。
5 ふたつめは、とてもそんな生易しい問題ではない。少子化自体については、日本のみならず世界中の人口がもっと減ることは、正に人間の幸福にとって、更には地球環境や動植物の生存にとって、いずれも好ましいことと思う(種としてのホモサピエンスの数は環境にとって最早過剰であろう)。
しかし、その人口減少が男性の精子数の減少に起因しているとなると、喜んでばかりもいられない。日本だけではないと思われるが、年々そうした男性が増えているとのことである。これでは、いずれ人の種としての維持生殖も覚束なくなる。即ち、人の男が徐々に生物である雄としての用を廃してゆくということである。いわゆる草食系男子などと表現される一部青少年層の社会現象なども、同根なのかも知れない。
6 その原因はいろいろあるかも知れないが、最近の研究などによると、蜜蜂の集団死を初め、主に環境ホルモンや環境化学物質(蜜蜂の場合は農薬といわれる)などが地球上に蔓延し出したからだそうである。各国やWHOなどの公的機関もこれを認め、遅ればせながら原因物質の規制に乗り出している。その点日本は欧米に較べ随分遅れている(もちろんメーカー筋からの働きかけによるだろう)。殊に食品添加物や農薬の分野は規制が非常に遅れている。
アトピーや各種アレルギーの流行、あるいは免疫不全、そして発達障害などなども同様の原因と考えられる。
最近、ボランティアから提出された各年代420人の日本人の尿からは、100%の割合で農薬やプラスチック等の成分である合成化学物質が検出されているとのことである。それ自体の濃度は微量であるとしても、日常的に長期に亘ってこれら環境合成科学物質を浴び続けたとき、殊にその人が妊婦、乳幼児の場合どうだろうか。成人とは較べようもない程の微量でも厳しい影響が現実化するのではないかと恐れている。
7 この地球上に人類が現れ、やがて人間は社会を構成し、科学の進歩の中でその利便性を日々享受してきた。その長い歴史の時間の中で、地球上が環境合成科学物質で満ち溢れるようになったのは、ここ半世紀のことである。アレルギーだ、アトピーだ、花粉症だ、免疫不全だ、発達障害だのと騒がれ出したのも、ここ半世紀のことである。大量殺戮兵器の異常な程の発達もせいぜいここ一世紀である。
成程、医学の進歩は目覚ましい。しかし一方で人間はどんどんひ弱になっている。除菌だの殺菌だのがはやり、どこもかしこも「清潔(らしそう)」な環境や「きれいな」用具にとり囲まれての生活である。だが、除菌は人間と共生するいわゆる善玉菌(これも時と場合によって変化するようだが)も滅殺菌しており、結果として人間の生物寿命を伸ばせても、人間らしく生きる健康寿命は縮めているのではないか。
我々は今人類史上の重大な曲角を生きている稀有なホモサピエンスなのかも知れない。100年後の人達が現在の我々をどの様に評価するのだろうか。
8 さて話を戻そう。
「幸福感」というのも、脳内の生理的活動のしからしめるところである。この生理機能を薬物や遺伝子操作、手術などによって、人為的にいじってしまったらどうなるのだろう。それも正に「科学」である。しかしそれを第1項でいう「科学」と呼ぶなら空恐ろしい。
これでは、科学は人の幸福のために存在すべきだ、という最初のテーマ設定も無意味になる。
実は「幸福」という用語が、異なる局面(次元)で同義に使用されるから混乱するのである。例えば、絶対の真理はないとの主張に対し、絶対の真理はないとの主張が絶対なら、それが絶対の真理ではないかとの反論にも似るといってもよいが、ここでは薬物であれ政治的世論操作の結果など何であれ、人為的操作の加わった「幸福」と、原初的・本質的な天然自然の本能による「幸福」との違いだといっておけばよい。理屈の問題ではなく、人の自然の感情としての幸福感こそが、科学の目指すべき先にある、というだけのことである。こんな当り前のことについて、自然科学・社会科学を問わず、世の科学者達が研究の依って立つ基礎あるいは職業(専門家)倫理としてわきまえていないとすれば、正に専門馬鹿というしかない。私達はそのような科学者を容認してはならない。
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