原発再稼働について
- 2013.07.22
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少し時間が空いたので、久し振りに書いてみます。
1 さて、政権交替後、いつの間にか原発に対する姿勢も問題意識も変化(後退)しているようだ。日本人に特有の歴史的国民性なのか、高度経済成長期を経験した現代日本の社会的文化性なのかは知らないが(多分2つながら様々の要因による複合的理由なのだろうが)、何とも面妖な話である。
ちなみに、鴨長明は天災について、人は無常観からこれを受容し、やがて忘れていくことを述べている。何となく喉元過ぎれば熱さを忘れるかのようであるが、福島原発(事故)は冷温停止、収束には程遠く、喉元どころか口腔内さえ過ぎてはいない。環境に日々多量の放射能を今もたれ流している。明らかな人災であるにもかかわらず、少なくとも今のところ法的責任を科された人もいない。きっちりした総括もできないうちから、事故は風化していっている。何故こんなに皆健忘症気味にお人好しなのだろうか。
2 情況の表面を現象的になぞっていけば、政権の交替によってまたぞろ「電力供給不足」とか「生産の停滞」あるいは「電気料金の大幅な値上げ」とか「環境の汚染」などという亡霊が跋扈しだしたということになろうか。
もう一度くり返すが、生産工場の電力不足とか生産停滞とかが現実化することはない。
企業は既に、クリーンで安価な最新のガス・コンバインドサイクル発電などによって、電力会社に売電もできる程の自衛措置は整えている。電力会社は、原発再開の為、老朽化と称して稼働可能な火力発電機を敢て停止させているのである。従って電力不足は虚言である。
円安と長期継続契約による燃料費の高騰のため電気料金を値上げせざる得ないとの電力会社の主張も、問題が多い。最大のトリックは経費の中身にあるが、それのみでなく、経費増に伴う一定の利益加算が電気料金として認められている料金算定のシステムである。ある意味経営努力の必要性が薄れる。いずれにせよ、一過性の電気料金の値上げはあっても、長期的にみれば、実質的に政府等による原発関連の公的(税金による)補助分や事故対策・処理費用・廃炉費用等をも原価経費に含めると、トータルとして原子力による発電コストは異常に割高となる。もちろん、別に火力発電を石油に頼る必要もない。天然ガス利用の方が石油より安価に入手できるし、NOxやSOxなども石油よりずっと少ない。
環境汚染というなら、原発事故による汚染の方がはるかに深刻である。
これらの諸事実はそれぞれの専門家によって既に論証がなされているところである。
3 ところで、先日新聞を読んでいたら、経産省の総合資源エネルギー調査会基本政策分科会委員である高名な評論家に対する原発再稼働についてのインタビュー記事があった。その前段の主張は、要するにエネルギー戦略を考える前提として世界の原子力情勢に対する正しい認識が必要であること、2006年以降日本がアメリカの原発メーカーを買収などしたことによって日米は「原子力共同体」の関係を築いたこと、その結果、日本が脱原発を唱えることは「甘えの構造」と言え、「原発ゼロ」を選ぶなら(日米同盟関係の変化も辞さない)相当の覚悟が必要だ、というものである。
世界情勢の正しい認識の必要性というならその通りであり、日米の「原子力共同体」関係というのも、若干の限定を加えれば(実質的には米軍への原子炉の提供という主に軍事的関係における日本の肩代りということかと思われるが)、その当否は別にしてそうした客観的状況にあること自体は同意できるところである。しかし、「その結果」云々以下については、到底容認し難い。
まず、アメリカ原発メーカーから東芝や日立がその原発部門を買収したことなどに関し、ババをつかまされたのは日本のメーカーだという観測があることや、アメリカではスリーマイルズ事故以降30数年以上も新規の原発が稼働していないことなどからは、アメリカが現行の原発に対し、経済的には既に見切をつけていることが明らかであろう。後は、主に軍事的な艦船等の動力としての原発利用ということになろうが、既述の評論家の先生も、ボカした表現しかしようとしない。端的に日米軍事密約があるからといった方が、より分かりやすかろう。しかしそうなると、まさに「由らしむべし、知らしむべからず」という、日本の伝統的な政治手法に反するということになろう。現状は旧い政治手法そのものであり、福島事故以前の原子力行政の復活でしかなく、本質的に誤っている。軍事的にというのであれば、現実的対処の方法はいくらでもある。それを、日米同盟の破壊だとか、それなりの覚悟などというから、話がおかしくなる。あまつさえ、「中長期的なエネルギー戦略で原子力をどう位置づけるのか、明確にすべきだ」などと、もっともらしいことを言い出されると、政府や電力会社に代って国民を恫喝し、目眩ましをしているにすぎず、何ともそらぞらしいという外ない。中長期的には、少なくとも核廃棄物の処理が解決しない限り現行の原子力発電による電力エネルギーは、退場させるしかない。後は天然ガスの手当である。
4 本質的にいえば、現行の原発システムによる限り、事故は不可避である。現行の原発が大規模、複雑系だからである。人間は神様ではない。設計段階か、設置段階か、あるいはオペレーションの過程であるかを問わず、人的ミスをゼロにすることはできない。
のみならず、原発稼働による副次生産物(核廃棄物)に対する安全・有効な対策は、未だ科学的な解決を見ていない。このままでは、ただひたすら地球上に核廃棄物を貯め込むだけである。一たん生成された核廃棄物は、人間の歴史の尺度でいえば殆んど永遠に残存するのである。原発による核廃棄物のうち、例えば、ヨード129の半減期は1600万年、セシウム135は300万年とのことだそうだ。そもそも「半減期」などという概念自体、計量的な数値規準としてはともかく、これを政治や社会現象の中で科学者が不用意に使うなら、それは科学者による勝手な用語、用法であって、誠に胡散臭い。
5 既存の原発システムに頼る、言いかえれば電力各社の経営救済に走ろうとするからいけないのである(ちなみに何故電力会社が原発即時廃止に消極的かといえば、主として会計上原発関係資産の一括廃棄は貸借対照表上多額の純資産が一時に減少するからである)。
かりに、原子力発電方式を即時全廃しないとしても、既存の(大規模、複雑系の)原発は全廃のうえ、過渡的・一時的にはウラニウムによらない小規模、単純系の原理的、技術的に安心な原子力発電は可能である。この場合核廃棄物も圧倒的に少ない。もちろん、基幹電力としての原子力発電という呪縛からは、即刻解放されなければならない。補完的な地産地消型の液体トリウム原発が、今のところせいぜいの妥協であろうか。
地産地消型であれば、送電網の整備されていない海外各国からの需要も、意外と多いと思われる。何よりも安全であるし、核廃棄物も少ない。
6 話は元に戻るが、既存の原発というゾンビの復活を許容する日本の土壌の最大の欠陥とは何か。
個人責任を追及せず、曖昧にしてしまうという歴史的な日本人の体質こそ、それである。
近くに例をとれば、日本は今次の大戦においてもアメリカを中心とする戦勝国による戦犯法廷は経験したが、日本人による戦犯追及は全くなされなかった。300万人もの大量の死者を出したにもかかわらず、戦争犯罪者に対する国内法廷による処断はなかった。東京裁判は、あくまでA級戦犯の場合平和に対する(天皇を除く)ごく一部の軍人、政治家を戦勝国が裁いただけである。B、C級戦犯にしても、外国人に対する戦時国際法違反としての戦争犯罪を対象とした(もっとも、誤判は相当多かったようだが)。日本は、軍人か否かを問わず、国際人権法(として既に国際的承認を受けていると推認できる原理規範)を基に戦争犯罪として、事後的な手続法を立法してでも、重大な一定の範囲で戦時下の人権侵害行為の理非を裁くべきであったし、戦争中の軍人らによる国内法違反については優先的に処罰して、その個人責任を明白にすべきであった。余談になるが、アメリカによる非戦闘員を対象とする無差別空襲や原爆投下も戦時国際法違反として指弾すべきであった。
7 この意味で、公害犯罪についても、そして原発事故についても、個人の責任を明確にすべきなのである。集団の中に個人を紛らせてはならない。福島原発事故をみていると、殆んど未必の故意ではなかったかとさえ疑わせるような事象もある。少なくとも認識ある過失の責任は問えるのではないかと思う程である。
実は、その責任者として東電幹部や監督官庁の中心的な役割を担った上級官吏、科学者・技術者といわれる専門家、一部マスコミの担当者らだけでなく、「被害者」であるはずの受入側の地元公共団体の長や議員らをも視野に置くべきだと思っている。彼らは、被害者であると同時に加害者でもあった。
殊に最近の、既存原発の再開を要請、容認する地元の知事、市長、地方議会の人達の言動をみていると、一層その感を深くする。また、地元住民に対しては、かりに事故を免れたとしても、今後数十世代に亘って使用済核燃料や放射性廃棄物を地元だけでかかえ込む覚悟があるか、を問いたい。
いずれにせよ、個人責任を明確に糾弾してはじめて、再犯は予防されるのである。
8 実際には、市民法原理としての罪刑法定主義の下では、戦争犯罪であればともかく、抽象的な国際法だとか自然法原理などをもち出しても、個別具体的な処罰など非実務的であって、現実には無理である。しかしなお、それを承知で、可能な限り現行法を駆使して個人の犯罪事実に切り込んでいくべきである。少なくとも、「誰が犯罪的な行為をしたか」までは明確にしておくことが肝要である。そうでなければ、地震国の日本は既存の原発でまた同じ過ちをくり返すであろう。それだけは、子孫のためにも、地球のためにも、絶対に回避しなければならない。
9 私達は便利な生活に慣れすぎている。その結果、無用に人工エネルギー(電力)を浪費しすぎているのである(もっとも、電車の中の間引消灯は、「節電」に名を借りた実質値上ともいえ、二重にいかがわしく、車内読書を楽しみとする老眼の乗客を無視した行為である)。
そして何より、現代人は物質文明に毒されている。何故人にとって物が必要か、どこまで必要か、物を得るために何を失っていくのか、もう少し立止まってゆっくり考えてみればよい。「物」を「お金」に置き換えても同じである。
エネルギー問題、就中、原子力発電の問題はよく環境問題に関連づけて論じられる。しかし、これまた、いかがわしい以上に犯罪的である。
地球温暖化と二酸化炭素の増加との関係は、近時科学的には否定的見解が強いようであるが、その点を措くとしても、原発の地球環境に与える悪影響は、大小の事故を想定するまでもなく、火力発電の比ではない。事故が発生してからでは遅すぎることはもちろんのこと、無事故で操業を終えた原発であっても、その廃炉の問題や核廃棄物の問題は、地球に対する大きな負荷なしには処理できないのである。
結局私達は、できる限り正確な知識を集め、できる限り物事の全体を長い目で考えるしかない。一人一人ができる限り賢くなるしかないと思う。
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