合理と倫理

1 原発事故に関する国会事故調査委員会と政府事故調査委員会の報告が出揃った。新聞報道等でその一端を知る程度だが、要約を読む限りでもそれらの相違もあって、興味深いところである。しかし、いずれにせよ、事故そのものは全く終息もしておらず、原子炉内部の調査もできない状態では、どこまで事故原因が解明できたかは疑問である。もっとも、くり返すが、このフクシマ事故は、その発生も拡大も、まさに人災である。地震に対する備えも、津波への対策も、明かに不充分であった。

 

2 さて、ここから先は法律家的議論になるが、犯罪事件であれ、人災事故であれ、その実態や原因を関係者に対する質問によって究明する場合、ごく単純化して言うなら、2つの調査手法がある。ひとつは、個人責任を問わない(免責する)から正直に真実(と本人が認識する事実)を答えよ、とする調査手法と、必ずしも個人免責を保証しない手法である。日本ではあまり一般的ではないが(但し、警察捜査などでは横行している)、前者の手法をとった場合でも、過去の事実と記憶との齟齬とか、別の動機による意図的な偽証は当然予測される。それでも、恐らく前者の手法による方がより実態解明に近づく場合が多いと思われる。

もうひとつの視点として、原発事故のような被害の甚大性を本質的特性とするような事故案件では、二者択一的 な判断ではないにせよぎりぎりの選択として、原因究明より事故の再発防止こそ最重要課題とする考え方はありうるところである。ただ、誤解のないよう付言するが、原因究明がよくなされてはじめて、事故の再発防止がよくなされうるというのが、当然の真理である。

しかし、それでも個人責任を免責する方法をとるのか否か、いずれにより力点を置いて調査するかの問題は、個々の具体的究明課題によって、常に潜在する調査方法上の問題としてありうるところである。

 

3 結論的にいえば、必ずしも個人責任の追及を目的とするものではないとする政府事故調の姿勢はおかしい。

人災による事故の再発防止は、関係した個々人の責任を問い、一定のサンクション(制裁)を課すことが必要と思う。

恐らく日本人の民族的特性なのかも知れないが、個人の責任が集団の責任の中に溶融され、曖昧化されていく傾向が強い。何故そうなるのか、いろいろ考えてみるが、よくわからない。その点は措くとしても、フクシマ事故でも、人災である限り、関係した各個人の責任をできる限り明確にすることは、やらなければならない作業である。

それは不完全な結果しか期待できないかも知れないし、多分不公平な結果を生むことになるかも知れないが、それでもやらなければならない。そうすることによって、事故の再発は相当程度防ぐことができる。

 

4 民事あるいは刑事上の時効は2の次でよい。

例えば、CIAのエージェントであった正力松太郎(このことはアメリカ側の資料の存在によって明白)が何故原発を日本に導入しようとしたか、どの様に日本の世論を誘導したか、原発と原子爆弾の原理的同一性と遅発性原爆である原発制御技術の不完全性をどの程度認識していたか、残存する資料から究明するのもよい。

それよりもどうしてもやらなければならない個人責任究明の対象者としては、原発の設置、維持、管理、調査等に関与したいわゆる専門家といわれる人達である。なぜなら、彼等こそはまさに「専門家」だからである。彼らに対する責任の追及なしにフクシマ事故は収束できない。科学はその専門性故に政治的に利用され、専門性故に無批判な信用力を生む。人文科学であれ自然科学であれ、科学や技術は、決して無色透明ではない。知識や科学は人が使ってはじめて実体化する。従って、これを用いる人間の価値観によってのみ現実化する。

専門家はこれを利用する政治家や経済人より罪深いことがある。政治が「手段の体系」である以上、政治的言動に対しては、常にある程度のうさんくささを感じとり、一定の懐疑的検証回路を働かせることができる。しかし、政治的手法として「科学的」専門性をもち出されると、門外漢には手も足も出なくなる。

科学(専門性)は「放っておけば」常に広い意味での政治に従属してきた。やや乱暴な物言いだが、経験的真実である。残念ながら、歴史的事実である。

実は、政治的関係においては、何もしない、何も選択しないというのもひとつの政治的選択であって、政治的効果を生んでゆく。その為、専門分野に職として身を置いた者は、好むと好まざるとにかかわらず、その専門分野について、全人格的選択を常に意識していかなければならないのである。

私達は知識や科学における倫理性ということを肝に銘じなければならない。だからこその「学の独立」なのである。人は放っておけば易きに流れる。
5 さて、話は変るが、今現在、日本で原発がなければ日本の産業(経済)ひいては日本人の生活が成り立たないという議論がある。これは程度の問題であり、合理性の問題である。しかし、フクシマ事故において今私達に問われているのは、生活の問題ではなく、命の問題であり、原発の倫理性の問題である。合理性の問題と倫理性の問題とを同じ平面で論ずることは、判断を誤らせる(もっとも、量の問題も程度を極端に超えてしまえば、質の問題に転化する場面がある。要は、価値の階層性の問題に尽きるのであろうか)。何であれ、利便(不便)性については、我慢できるところまでは我慢してみるという判断は、結構有効と思う。

倫理性の貫徹とは、ある意味そういうことである。

 

6 原子力規制委員会の人選が話題になっている。
末端(担当職員)まで含めて「人」が変らなければ、やはり従前と本質的には変らないのかと思う。人を総入れ替えしない限り、所詮、広い意味での政治の具になる可能性の方が高い。

最初の疑問は、委員はなぜ専門家なのかということである。少なくとも正・副委員長及び委員の過半数は専門家でない方がいい。本来、それぞれの分野の専門家集団は、委員(会)の助言者として参加してもらった方がよい。専門家とは、特定の分野における専門的知見を有する人であって、部分を全部集めても全体にはならない。余談になるが、近代合理主義とは、方法論として、全体を細分化してその分析結果を集積すれば物事の全体になるはずだ、という信仰に支えられている。そうした思考法も大切であるが、それだけでは全体真理とはならない。
7 多数の命と将来の地球の環境にかかわる重大な事項については、より慎重に判断する外ない。それには、より多面的な検討が必要なのであって、原子力とか、地震とかの特定の分野における判断、あるいは経済とか生活という限定された思考方法による意見で、こうした重要な事項が決定されるのは困る(むしろ原始力-人間本来の始原的価値判断で決めたい)。究極のところの価値原理でいえば案外単純で、何を言おうとどんな行動をとろうと一定程度容認するが、自分の行為で他人に迷惑をかけてくれるなということでしかない。多数の意見は意見として、命にかかわるような重大なことは、多数で決定してくれるなということである。

もう少し視点を変えていえば、物事は多面的にみるしかないということである。このことは、まさに合理の問題なのである。

さて、知識をもつということは、それだけ責任を負うということなのである。そしてこれは倫理の問題であると同時に、合理の問題なのである。なぜなら、知識(技術)の欠陥はその知識のある者こそよく理解できるからである。