教育の自由性と民度ということ
- 2025.08.05
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1 前にロシア国民の民度(教育制度に伴う事案の理解力)について触れ、低い評価を出した。同じことをアメリカ国民について述べるなら、ロシアと殆ど同断だと言わなければならない。
ちなみに日本国民について記せば、露、米よりはまだマシだと思っている。その理由は教育制度の普及、浸透度の違いによると考える。基本的な教育制度については、なんだかんだ言っても日本は制度的にもその実施の実態からみても、それなり(相対的)に優秀であろう。だからまた、国民の理解力も高い。
2 国民の理解力は、そのまま、政治的、経済的諸制度の運営実態をより効果的、効率的にするし、理念的にもより深化させ、より正確な実態の把握を可能にする。何より理念の実質や社会制度の実態において、高度化、効率化する。もっとも必ずしも高度化や効率化をよしとするつもりはないが、少なくとも経済的には多分より効果的な機能を発揮するであろう。いわゆるコストパフォーマンスがよくなるであろうから、その分浮いた時間を他の機能面の効率化に使うこともできるし、何よりコトの本質に近づき、事案の深化につながるものと期待することはできる。
その実質的推進力は教育(制度)にあると思っている。その点で、少なくとも日本の教育制度は一応の成果を上げていると評してもよいのであろう。殊に戦後の成果は、教育(制度)を標準化し、一般化・大衆化してきた。
3 もちろん、日本の教育制度の問題点は山程ある。ただ、戦後だけを見ても一応の成果は上げてきたと述べているにすぎない。
教育(この場合、対象を生徒や学生などに限定しているのではなく、有職無職を問わず、未成年、老人にかかわらず、全ての人を想定している)に求められるものは、創造性や独自性であったり、実用性であったり、時には合理性であったり、飛躍性や情緒性であったり、結果から見通せば千差万別の態様であるが、何であれ教育の目指すところは現状の変化、変更の適合性である。その変化、変更が次の変化、変更を生み、創造性が実体化、現実化する。教育はその過程を生み出していく。
4 もうひとつ指摘するなら、教育自体に無駄はない。一見、無駄のように見えても、受けとる側の受けとる内容や方法のいかんによって、その結果はどの様にも変化、変容する。表面的には融通無碍だと言ってもよい。
このことは、「教育の自由性」と言うことも出来る。
実は、それこそが「学問の自由」の核心でもある。
本来、学問の自由とは、時の権力に対する独立性(の保障)として、制度的に論じられる。それは、歴史的には時の権力が「科学」なり「学問」なりを常に政治的に利用するという、政治力学の中で問題にしてきたからにすぎない。
その最たるものが、原子力あるいは端的には「原子爆弾」の発明と日本への使用という過程に明らかである。
5 アメリカによるいろいろの弁解、弁明は、原爆使用の実態を解明するのではなく、そのもっともらしい言い訳表現にすぎない(東京等の大規模空襲による大量・無差別殺人も然りである)。
その当時の「日本人」は、手頃な「モルモット」であった、と言っても過言ではない。それが明治以来の欧米人権力者の多数の認識であった。
話は拡散し出したが、日本の場合、戦前戦後を問わず「教育制度」は一定の効果を上げてきたと言ってよい(もちろん「天皇制」の果たした負のイデオロギーを軽視するものではない)。その意味で、日本人は世界的に見て民度は高い。政治政策やイデオロギー的誤魔化しにもかかわらず、政治の実態について一定程度の理解は進んでいると考えてよい、と思っている。
別に特定政党の支持率なるものを信仰している訳でもないが、ヘタなバイアスを抜きにすれば世論調査の結果は、その方法と実施主体及び時期や趣旨等を看過しないようにしていれば、一応の判断材料にすることはできる。日本の民(大)衆はそれなりに賢い。ロシアのみならず、米国の民意、殊にテレビ等でのトランプ発言なる言動に接する限り、トランプの特殊性を差し引いても、やはりアメリカ(殊にトランプ支持層)の民度は低い、と断ぜざる得ない。トランプ支持基盤なるものの実態解明が不明のまま、大きなことを言う気はないが、外から見た実感である。
ごく大雑把にいえば、少なくともトランプ支持層の中核的イデオロギーは、悪しきキリスト教の排他性と非論理性と自己中心的な現在利益の神格化という思想の弊害のように見える。
誤解のないよう更に付言すれば、日本人がその弊害を免れていると言っているのではない。キリスト教の問題を別にすれば、アメリカ人も日本人も50歩100歩でしかなく、限定的な枠組の中では、程度の差でしかない。
6 ただ、その程度の差の原因ないし事情をもう少し掘り下げてみると、やはりキリスト教イデオロギーと仏教思想の歴史的背景に行き当たるように思われる。一神教と多神教(日本の土着宗教でもある)の宗教にかかる本質的相違に帰因する。
実は、宗教におけるこの相違は本当は決定的である。
土着宗教である日本の民間伝承は、正に山川草木である「自然」の現象物ないしその現象そのものが神格化されるので、当然のことながらその対象毎に神々が宿り、多神教とならざる得ない(その意味では日本の土着宗教は正しく原始宗教である)。もっとも、では仏教はどうかというと、決して阿弥陀仏や釈迦仏の一神教ではない。極端にいえば、次元の違いこそあれ、人間も死ねば成仏し、仏となりうるという、誠に融通無碍な宗教なのである。
なんとなく中途半端ではあるが、一端ここで一段落としたい。最近の夏の暑さを思うとこの議論を続けるエネルギーが欠乏し出した。
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