老と死に関する簡単な感想

老いは、遅速の差はあれ、死に直結している。それで老人なりの若干の思いを述べておく。

 

1 私の場合、死への憧れなどは一切ない。当然のことながら、死に対する忌避意識は強い。

子供の頃悩んだのは、死の基本概念であり、同時に派生概念としての「永遠」ということだった。そもそも終りがない、ということの意味がわからなかった。その頃「宇宙」だとか、「無限」だとかいわれても、全く実感できなかった。今考えてみれば、それらは限定された分野での空想的・抽象的な概念でしかないのだから、子供なりとはいえ、死の「実感」を求める方が土台無理な話だったというにすぎない。もし実感を求めるとすれば、空想の外形(物語の物神化)を整えるしかなかったはずなのである。死の実感的把握などとは、特殊な感性の持ち主らにのみに許された「特権」なのかも知れない。但し、この「特権」は個人差が甚だしく、その濃淡、強弱は正に無限、無数にある(もっとも、話がここまでくると収拾がつかない)。

そこで、「死」とは生物の生命の途絶えること(とき)と単純に考えて、その対象主体を人間に限定し、文化とか宗教とかとも無縁に、その老いについて考えてみたい。

 

2 老いを最初に実感したのは、私の場合、筋力の衰えというより、記憶力、殊に短期記憶の劣化である。

もともと記憶力に秀れていたわけではなかったとはいえ、つい直前に置いた物の置き場所を忘失するという、笑えないドタバタを経験するようになったことである。まあ、自分本来の素が出ただけのことと思えば、それだけのことなのだが、その回数が増え出してみれば、やはり老いの兆候という外ないのだろう。それでも最近は、頼まれた買物などについては、メモを心掛けることにした。これは案外有効である。

 

3 次に気づいたことは、何事によらず(行動することに限らず、考えたりすることも、もちろんその為に資料調査などをすることも)面倒になったことである。成程、これでは「勉強」しようとの意欲など湧かない訳だと気づいた。こうなると即効性のある対処方法などはない。

そのくせ、自分が興味のある事項や面白いと思う事項は別のようなのだ。それで、できるだけ自分が面白いと思える事項に限定して考えたり行動したりするように仕出してみた。結局は「趣味」をどれ程広く持ち続けられるか、ということに落ち着きそうだ。

但し、これでは系統だった勉強などは、最早不可能である。まあ、それでよしとする外あるまい。こう考えてみると気楽になる。

実をいうと、ここでは、老化とは関係ない話だが、ロシアと中国について書こうと思って少し書き出してみたが、情報や資料不足であきらめたのである。

 

4 次に気づくのは、気が短くなったことである。

子供の頃から短気な方であったが、年と共にその傾向が強まったようである。

私自身の思い込みでは、年と共に気が長くなるはずだったのである。これは一体何のこった、との思いを禁じ得ない。

昔、子供の頃、時々父方の祖父が、家に遊びに来ては縁側で何も言わずにニコニコしながら少しばかりの酒を飲んで、また何も言わずに実家(父の生家)への一里の田舎道を歩いて帰った。父は元々短気な方であったが、祖父をみる限り父もやがて年をとれば穏やかになるものだと思っていた(もっとも父は比較的早くに60代で亡くなってしまったが)。ついでに、父の思い出に少し触れれば、父は釣りが趣味であったが、父によれば釣りは気が短くないとダメなのだそうだ。

ついでに云えば、母も昔からの江戸っ子らしく気が短い性質であった。

という訳で、これで気の長い落ち着いた子が生まれる訳はないかとあきらめている。

 

5 最近、久し振りに吉本隆明の「親鸞」を読んでみた。その中で、89歳の親鸞の著作(読んではいない)があることに気づいた。考えてみれば、当時の平均寿命からはとんでもない年齢での著作である(それともその著作は聞き書きか)。

やはり、それなりに修行した坊さんともなれば、凡人とは違うのだろう。しかも彼は、背信の息子の虚構を暴くため、関東に下ったようである。とんでもない熱量と体力を感じる。その判断と行動力からは老いの気配など微塵も窺えない。

こうなると、体力、行動力、判断力(智力)は、直ちに連環するわけでもなければ、年齢に左右されるとも限らない、即ち暦年齢からも(一定程度)自由であるし、老いとも直結しないと考えてもよさそうである。

高齢者には力強い先例である。

 

6 とはいえ、老いにはもうひとつ厄介な特徴がついて回る。

あるいは私固有の特質なのかは知らないが、複数の現象を合理的な検証(根拠)もなく、関連づけて一体的に理解しようとしたがる(その方が思考や記憶上楽だから)。

その結果論理の飛躍や不安定、過不足、過誤等が発生する。自覚できるうちは修正もきくが、無意識の場合も少なくないと思われる。ゆめゆめ、油断すべからず、というところか。老いとは恐いものである。

死が近づくと、合理的な判断などより、感覚的、情緒的瞬間的判断が優先するのかも知れない。多分時間がないことを自覚するか、無意識に感得するからか。

 

7 死を意識し出すと、物事をより感覚的、情緒的判断やそうした傾向での理解をしていくとすれば、死に対する恐れや忌避感が深まり出す人と諦念へ向かう人と、この2つの感情が綯い交ぜになっていく人と分かれていくのかも知れない。

ではお前はどうなのだ、と問われれば、いずれも嫌だという外ない。

結局、ここでは自分の来し方をふり返ってみて、その評価如何によるのかと思う。平凡で中途半端な結論でしかないが、今のところそういうしかない。ただ、自分では(人生の残りこそ少なくとも)まだまだやり残していることが多いとの思いである。それで、いろいろ本も読むし、ニュースに耳をすます。