加齢によって見える政治的風景について

1 齢を重ねるということは、単に物や事について、経歴を積むというような状態とは随分異なる。齢(年)を重ねる主体が物ではなく、動物でもなく、人間だからである。

要するに、経歴を積む主体が、外部環境を自らの内に取り込んで、それによって自らを変容させていくことのできる動的存在だからである。

少々飛躍する論理だが、人間が「齢を取る」ということは、同時に「反省」という心的現象をも内包する。

そう考えると、自分はいたずらに馬齢を重ねているだけではないか、との忸怩たる思いに駆られる。時間は後戻りしない。

そのくせ一方では、年とともに過去の失敗ばかりが思い出される。なんとも厄介なものである。

まあ、それが人間というものだからと、割り切ってしまえばそれまでであるが、何となく言い訳のための言い訳のような気がして釈然としない。

そこで二つの方向に道をとってみる。

2 ひとつは、人間とか言語とかいう心的現象に直結するような課題は、とりあえず棚上げにして、後で検討する方向でフタをしてしまう(しかしこれは遅かれ早かれフタを飛ばして噴き出してくる)。

もうひとつは、政治とか経済とかの社会現象の中での課題に注力する。しかしこれも、社会的存在である人間という問題につき当る。しかし、その自覚なしには、解決の道筋は見えていない。

結局は、多かれ少なかれ人間とは何か、更に言えば、例えば言語にとって美とは何かという古典的課題ともつき合うことなしには、すぐにも前に進めなくなる。

ここ数年来、視力が相当低下してきている。そうなると面白い読み物ならいざ知らず、面倒くさい本はなかなか読む気にはならない。やはり、厄介なことである。

それでも考えることなしに漫然と時流に流されるようになれば、(生きていても)人間卒業ということになるか。それも嫌だな。

何でそんなことを考えるかというと、北海道で足の指を4本骨折して以来、当分は近くの低山にせよ全く行けなくなって、原則休日でも自宅かせいぜい都内におり、休日の時間が余り出したからである。そもそもは右足指のケガの為、車の運転ができなくなったからでもある(多分私の場合、動いている方が性に合っているのだろう)。

3 さて話を戻して、今回はとりあえず、まず石破さんという首相について書いておこう。

結論的には、私はあまり彼を信用していない。要するに、就任前後から彼の言説がいろいろ変動するからである。もちろん、自らの信念がいか程堅固であろうと、首相という一定の役割を担う以上、一定の政治情況の中で、そうした信念なり姿勢が相応の変容を余儀なくされるであろうことは、充分理解しているつもりである。信念だの姿勢だのと大上段に振り被らなくとも、時により、殊に時間の経過の中で表現としての言説がある程度変化をきたすのはやむえないところである。

ただ、その変化が表層的な、あるいは現象的な部分に留まっているならめくじらを立てる程のことでもない。だが彼の場合、表層的変節を越えている。(このブログをここまで書いている途中、650頁近くある山田正紀の「神曲法廷」という既に10年位前に文庫本化された古いミステリー小説を読み出してしまい、このブログを中断している間に、先日衆議院議員選挙があって、石破首相の命運もはっきりするよう(はず)なので、この作文もこれで中断終了とする。余談だが、ダンテの神曲「地獄篇」を元にしたこの「神曲法廷」という小説は結構面白い)。

4 次に、この際折角だから「選挙制度」について、前にも書いたが、重ねて触れておこう。この制度は民主主義制度を支える根源のひとつとされる。一般論ないし原理的にはその通りである。ただ、昔から、現行の選挙制度をみれば、この一般論ははなはだ心もとない。

そもそも、具体的な人(候補者)の見えない、即ち顔の見えない選択というのは、一体何なのか。実態は所詮外形(観)による人気投票でしかないと思われる。

結局最終的には、正解は数十人からせいぜい最大百人規模の集団(第一次集団)で各人の顔と名前がわかる程度の人数の中から誰か1〜2名の代表者を選び(第二次集団)、その第二次集団(ここも数十人から最大百人規模)から更に1〜2名の第三次集団(同様規模の集団とすればこれで最大100=1,000,000人の集団)の代表が決められる。これが制度としてのかろうじての正解だろうか。

5 「顔の見える関係」というのがキーワードだが、選任された候補者の立場でも、誰しも大部分不特定多数の人からの信任よりは、多少なりとも顔のわかる人からの信任の方がより親身、真剣になって役立ちたい、と思うのが人情であり、少なくとも信任者を大きく傷つけるような背信行為には出にくいものであろう。その信任行為が二重、三重に階層を経たものであるとしても、直接の信任者と候補者とは目にみえる関係性の中での行為だからである。

その意味で、地域や各職場ないし活動拠点毎での「選挙」が望ましい。

但し、この方法ではいわゆる選挙人名簿の作成が難事であり、手間であろう。しかし、民主主義制度の根幹を支える制度のひとつが選挙制度だというなら、その制度の整備にある程度大きな手間と費用がかかるのは、やむえないと考える外ない。

6 私の場合、昔から選挙は一切棄権していた。理由は簡単で、投票率が50%未満に落ちれば、理論上、現在の「選挙制度」の正当性は失効するものと考えていたからである。その結果選挙制度の抜本的改革が具体化するものと期待していた。少なくとも公職選挙法の「改正」が真剣に議論されるはず、との思いがあり、その為に政治団体を組織してもよい、とさえ考えていた。

しかし、全く甘かった。殊に知事選を含む地方自治体の選挙では、投票率30〜40%も珍しくない状態になっても、せいぜい「小選挙区制」などという、まやかしの制度、どう考えても「死票」が増えるしかないような改悪がなされただけに終わっている。

比例代表制にあっても、ある程度の死票は防げるかも知れないが、そこまでのことで、本質的には有権者と候補者との距離は一層離れるばかりであろう。

己の不明を恥じるばかりである。