再開
- 2016.01.13
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1 久し振りにブログを再開する。この間、別に腹がふくれなかった訳ではなく、中断は私自身の怠け癖とその他諸般の事情による。もっとも、こと原発に限らず、この間の政治情況はあきれてまさにものも言えなかったから、とも言えなくはないが。
2 原発についての感想はといえば、被害者が実は加害者でもあるという皮肉な真理を実感したというところである。福島県民こそが今回の原発事故の一端を担っている。そしてこれからは、鹿児島県民や福井県民の意思決定も、(自覚していると否とにかかわらず)万一の事故発生の一因を決定づけるのである。
さてそこで自慢じゃないが、かつて選挙権を行使したこともない、という我が政治性について真剣な反省を迫られたとでもいうべきなのであろうか。どうも事はそう単純ではなさそうだ。選挙における棄権こそ沈黙のマジョリティを味方に組み込んだ最も有効な投票行動である、との政治的信念は、有効投票率50%を切った選挙というのは最早民主主義の形骸でしかない、との前提原理によって支えられているが、その前提原理は、この20世紀末からは既に通用しない政治原理になっている。私の政治的考え方が未熟だったのか、現代の政治家やマスコミが余程破廉恥なのか。両方とも当たっているような気がする。
3 他人(ヒト)に文句をつけても今ここではしようがないから、自分自身の未熟を反省してみると、ひとつに民主主義という政治思想が誤っているのではないか、との極論に達する。
しかし、これはなかなか与みし難い。民主主義に対置しうる有望な統治形態は、「賢人政治」(少数の賢人による独裁的統治)であろうかと思うが、そもそも「賢人」とは何かという最初の一歩で躓く。そこで結局民主主義における「顔の見える選挙」が相対的有効な政治原理ということになろうか。
顔が見える関係の中での選挙では、そうそう棄権という訳にもゆかないし、棄権は不信任となるから、沈黙のマジョリティとはそれ自体明白な意思表示となる。結局顔が見えるということは、立候補者の人となりを、それがたとえ最終的には建前であり幻想であったとしても、それなりに具体的に認識できたうえでの投票行動を選択できるということである。もちろん、所詮量の問題でしかないのであるが、現状よりはもう少し増な政治が可能になるかも知れない。
4 問題は①平等な選挙権を前提にどの様な態様と範囲の選挙母体(選挙人集団)を設定するのか、ということと、②母体が小集団であればある程何層もの代表者による間接選挙が必要になるのではないか、ということから、当初の顔の見える候補者とは似ても似つかない人が最終的な代表者となる可能性がある、ということである。
実は、①の問題と②の問題は連関する。ひとつの解決策として、顔の見える選挙を重視するならできるだけ少数(例えば、何千人とかではなく、せいぜい数百人単位)の中で選挙することと、選挙母体の人数差はそのまま(1票の重さを変えず)各人の1票に倍率(当選者数÷選挙人数)を乗じて、多い順から当選を決定すればよい。何層かの間接選挙については、必要最小限にして、これをセーブすることが可能になる。
5 もっとも、この社会が所詮金銭という短期的経済的モメントで動かされている、要は金の問題でしかない、と見限ってしまうなら、顔が見える選挙も建前でしかなくなる。それでは新年早々あまりに夢がないであろう。顔の見える選挙を一度制度化して試してみたい、と思う。
6 最後に一言、昔箱根の芦ノ湖で遊覧船に乗ったときのこと、あまりに霧が深く、「白い闇」という感想をもった。これを現在の政治情況にあてはめてみると、「沈黙と忘却の白い闇」という形容になろうか。嫌ですねえ。ただ、時に寺山修司の「マッチ擦るつかの間海に霧深し 身捨つるほどの祖国はありや」の心境にもなる。殊に、家族に病人が出ると心も萎えるが、闘志をかき立て、己れの体と頭を鍛えるしかない。
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