エネルギーを基準とする価値の通貨化

1 夏休み中、貨幣単位として、円とかドルというような各国の通貨単位に代る世界共通の単位(基準)を創出できないかといろいろ考えてみたが、結局今のところあきらめた。

具体的には「エネルギー単位」という考え方で、そのいくつかの適用の可能性を検討してみた。もちろん、世界共通通貨としての特性の下での考え方である限り、各国の経済力や産業構造等々の目も眩む程の格差を捨象することとなって、そのため「エネルギー単位」といっても、一定の抽象性を前提とする外なく、まさに空理空論に堕すこととなりそうであったが、原理的な基準という意味で、おおいに興味があった。

 

2 とりあえず考えたのは、例えばひとつの物を作るのにどれだけのエネルギーを要するかとして、その積算高をもって、エネルギー単位の数値、即ちその物の価値とするということであった。しかし、この方法は製造業の成果物にはある程度あてはめられても、サービス業や芸術作品、特許などの知的成果物には適用困難ないし適用不能である。

また、第二次産業であっても、埋蔵物探査を含む原材料の調達から、製品化への研究、営業活動、その後のメンテ、廃棄に至る全行程について、エネルギー消費を視点としてこれを評価(値付)するなど、そもそも知的成果の数値化が困難である以上、行程の途中に知的生産活動が介在する限りやはり評価困難であり、殊に芸術作品(商品やパッケージ等のデザインを含め)など主観性の強い成果物はもともと評価不能ということになる。

もちろん一般的な第三次産業における知的生産活動や知的成果物に対し、生産活動時間を通常の労働消費熱量という観点でもって算出すれば、一応の数値化は可能であるが、これだと肉体労働との間の差異をどう組込むか、とか、人件費の地域格差を全く無視すべきか、など次々と疑問はでてくる。

多分、まず定量化できない人間の広い意味の生産活動(特殊技術的あるいは知的生産活動など)を除外したうえで(この除外部分は全くの主観的評価となる)、その余の生産活動について、人工エネルギーの生産単価で基準化するというひとつの方法が思い浮かぶが、それでも具体的なアウトラインの素描にも至らない。ということで、下手な考え休むにしかず、となったわけである。

 

3 なぜこんなことを考えていたか、若干言訳めいて述べれば、原発問題に触発されたとはいえ、将来の人間社会の生き残りはエネルギーと食料問題抜きには考えられない。

そのうちエネルギー問題については人工エネルギーの滞りない供給の確保とその消費の抑制にあり、その為には具体的な物の生産と消費について、その必要エネルギーを数値化して、通貨の基準単位として表示することによって、エネルギー問題の大切さを日常的に認識しておくべきだと思ったことがひとつと、資本主義の主要な原理としての「等価交換」とか「需要と供給」ということを、思考実験的であっても再検討したいと考えたことからである。

実は、もうひとつの人類の課題である食料問題も、生産された食料について生産に要した総エネルギーを価格として数値化することによって、比較的簡明な価値の交通整理が可能となろう。

 

4 例えば、牛肉や魚肉1Kg当り、生産のためどの程度の消費エネルギーが必要だったか、を考えるなら、恐らく牛肉は穀物価格の数十倍位にはすぐなってしまうであろう(牛1頭はその体重の何倍もの穀物を消費する)。ちなみに、動物蛋白質は、玄米や大豆、蕎麦などの植物蛋白質によって、代替可能である(元々、発生史的には人間は猿と同様果食動物だったとされる)。

一方、同じ野菜や穀物であっても、かりに有機、無農薬で栽培しようとすれば、その労力や生産工夫に要する人工エネルギーに換算されるべき人的エネルギーは相当量に上るのであるから、価格が一般農作物よりそれなりに高額となるのは当然なのである。

もっとも、昆虫や微少生物を主食化することになれば、消費エネルギー的には随分と効率化できるかも知れない。安全性の問題は充分解決可能であるが、好悪の感情の問題は残るかも知れない。しかし、これも所詮生存のための必要性ということから、時間的な経過の中で解消されていくはずだ、という程度の問題であろうか。どうも味も素気もない話になってきたが、旨い味を出す調理法はいくらでも工夫できるだろう。

 

5 脱線しすぎたので、もう一度話を戻せば、金本位制の時代はとうの昔に終っており、現代の通貨は各国のいわゆる国力(端的には主として経済力)を担保とする与信制度でしかない。現在の通貨は、国力というような漠とした、ある意味すぐれて抽象化された価値で基準化されている。

そうした現在の通貨制度に較べれば、エネルギー単位で基準化した方が、通貨の実体ははるかに見易くなる。とはいえ、その信用力は、世界共通通貨化したとしても、当面、各国の人工エネルギー生産に対する与信力によって保全されることになるだろうし、最終的には世界規模での人工エネルギーの総量によって制約されざる得ないのだろう(従って、各国による恣意的な通貨総量の「水増」などは、原理的に無理)。その意味でも、少なくとも人工エネルギーの無駄遣いは多少なりと回避できるように思われる。

 

もう少し時間をかけて考えてもよい課題のような気もするのである。