コンピューターなどよりカンピューターの本人ですので、ブログなどはいささか面妖な話ですが、世の中誠に不条理ですから、腹ふくるることとならぬよう、少し雑感を綴ってみます。

 

1 平成23年の最大の社会的出来事は、地震などではなく、「原発事故」だろう。地震だけなら、これ程に不幸ではなかった(この不幸はこれから何十年、もしかすると何世代か続くかも知れない)。しかし、原発事故は、想定外の事故でもなければ、不可抗力でもない。まさに人災である。

私が弁護士になった頃には、既に今日のフクシマのあることが度々指摘されていた。一部のまともな学究の徒や意識的な市民は、地震国日本での、しかも海辺での原子力発電所設置に異議を申立てていた。これを無視し、あるいは封殺してきたのは、マスコミであり、学者とか専門家と称する人達だった。

実のところ、当初、原発を政治的に主導したのは、核武装を将来の外交戦略として選択した一部のイデオローグ達であったと思う。もっとも、核兵器が張り子の虎に止まるうちは格別、核武装をするというのも、しないというのも、本当は大変に勇気のいる選択ではあるが。

2 その昔、「産学共同」という言葉は、負のイメージをもって語られていた。現在は逆のようである。「学の独立」とか、「司法の独立」とかさえも、今や累卵の危機を通り越し、現実には、最早や過去の遺(異)物になろうとしているのだろうか。

とはいえ、第二次大戦の実質的な隠れた戦犯は、マスコミの本質や機能の何たるかや学問や技術の何たるかを、敢て見ようとせず、あるいは軽視してきた、つまり故意の、あるいは「善良」な知識人達(本人が意識するとしないとにかかわらず、これまた充分に政治的選択をしているのだが)であったと思う。政治的には報道であれ、学問であれ、それ自体が全体情況から隔離されて、純粋理念や技術として孤立して機能し、存在するということはありえない。政治はそれを許さない。政治とは手段の体系化だからである。

故意犯はともかくとして、善良な方々には、全体を本質的に見ることができなければ、一定の政治情況の中では結果として、常にマスコミは体制迎合(目的的に言えば「世論」の捏造)となり、学問や技術は権力の走狗となる外なかった、という歴史的事実をまずもって警告しなければならない。

また、ここでは特に論じなかったが、裁判所もこの点(司法の独立性)潔白ではありえない(行政訴訟では法律それ自体が多くの問題を孕んでいるにもかかわらずこれに目をつぶり、憲法訴訟では立法、行政の補完者となって来た。原発訴訟での裁判所の役割も然りであった)。

以上要するに、学の独立といい、司法の独立といい、それ自体を全体から抜き出して単独で捉えてはならないということ、言い換えれば、現在のみならず過去及び中長期の将来を見据えて、その政治の力学の中で、いずれの対応と選択が人の幸福にとって理にかなうかということなのである。

3 話を元に戻そう。

それにしても、何故に日本で原発事故の個人責任の追及が具体化しないのだろうか。

時効などという理屈は理由にならない。法律的には刑事責任はともかく、時効になっていない不法行為の成立する場面(20年以内の出来ごと)も少なくないであろう。また、思想とか学問という次元では、そもそも時効など無縁である。

ドイツでは、最近も90歳位のナチの戦犯が、逮捕されて数年の審理を経て有罪とされている。団体の責任ではなく、個人の責任が明確化されてこそ、不祥事の再発が予防されるのである。

この点、マスコミは概ね沈黙を守っている。調査中なのかも知れないが(例えば、1月1日付毎日新聞一面には、現在から19年8ヶ月程前の出来ごととして、当時のエネルギー庁担当課長<現審議官>による原発廃棄物とされるプルトニウム処分に関する故意の情報隠しが報道されている)。

放射能汚染は、ことによると、フクシマ程度であっても、局地的には生物の遺伝子に変異をきたせて、何世代も後環境や生態系に好ましくない影響を与えるかも知れない。

原発犯罪は、戦争犯罪と同様の視座と方法で解明されるべきと思う。