少子化と地球及び世界環境

1 先日、金魚を使った展覧会様のイベントを観にいった。

沢山の数の金魚を工夫された大型の容器に密集させて姸を競うというところが、メインの展示であった。サブ的に(メイン会場へのアプローチを利用して)、珍しい種類の金魚を数匹小さな容器に入れて、数十秒おきに照明の色を変化させて観賞させるという、よくわからない催しだった。恐らく芸術家気取りの2流の自称アーティストによる構成なのだろうが、夜だというのに結構な人出で混雑していた。印象は、きれいだねという感心と、それ以上に残酷だなあという嫌悪だった。水族館などの比ではない狭い中にこれだけの数の金魚を泳がせて、水槽の外の水流循環装置で酸素や給餌の仕掛があるのだろうが、どうも感覚的にはなじめない。

そもそも、金魚という観賞魚自体、人間の身勝手と残酷性の象徴なのかも知れない。

 

2 話は変るが、その昔、私が「少子化対策」という言葉を初めてきいたとき、その対策の内容は人口を減らすための政策立案だと思った(もちろん一定の人口減少に対する政策対応を射程に入れたうえでのことであろうとは思ったが)。この思い込みによる誤解釈については、真面目な笑い話として時々話題にしてきた。

この地球上に、それなりの大型動物の生物種がこれ程多数繁殖跋扈したのは、長い地球の歴史の中で多分現在のホモ・サピエンスだけだろうと思う。蝶にせよ、鼠にせよ、増えすぎると何故か集団自殺に走ることがあるという。生物の遺伝子には、一定の条件下で目覚める自殺因子でも組み込まれているとでもいうのだろうか。

それはともかくとして、この状態で地球上に人類が増え続けると、果してどうなるのだろう。殊に医学の進歩と食料事情の改善は、人間の平均寿命を著しく引延ばした。先進国では人口が減少に転じつつあるといっても、その比ではない程発展途上国では人口が爆発的に増加している。恐ろしいこととみるか、好ましいこととみるか、局面によって人それぞれだろう。ただ、長期的にみるならば、人類あるいはひょっとすると地球そのものの滅びへの不可避的な要因となっていくのか、とも考えられる。

実はエネルギー問題(人間生体の活動エネルギーの供給という意味で食料問題を含む)といっても、最終的には人口問題に帰するのである。

 

3 急激な老齢化現象の進行がいけないという。しかし、この議論は、生産人口の急速な減少を危惧しているだけのことであろう。

まず最初に期待してよいことは、技術革新による労働生産性の向上である。次に、人口の半分を占める女性の存在は大きい。確かに女性の社会進出はめざましく、昔日とは量的にも質的にも比較のしようがない程である。それでもまだまだ女性の活躍できる場は多い。特に子育てが一段落しての女性の社会復帰は、経済的にもイデオロギー的にも不充分と思う。日本の封建遺制の残滓であろう。

忘れてならないのは、労働の担手として、長寿化に伴う「老人」の活用である。平均余命の増大に伴い、かりに65歳定年としても、健康で働くことへの意欲ある老人は少なくない。人間、働けるうちは働けばよい。もちろん、老後をのんびり暮らしたいというのも自由であるが。いずれにせよ、老人パワーを侮ってはならない。働く能力と意志のある老人は少なくないはずだし(団塊の世代の元気さを見よ)、彼らを重要な労働生産の担手としてカウントしない手はない。私の知る限りでは、「老人」といっても、働けるのに子供(青壮年層)の世話(働き)に依存したいなどと思っている老人は少ない。

現実には、老人に限らず、若者であれ、女性であれ、働きたくとも働く場がないというだけのことである。

 

4 年金制度は既に破綻している。当初の制度設計が誤っていたからであり、制度のための組織の維持に経費をかけすぎたからであり、資金運用の素人がその道のプロの甘言に欺されたからである。

1人の老人を何人の若者が支えるか、などという抽象的、目眩まし的な議論は、あまり益がないと思う。

いっそのこと、セイフティーネットを充実させ、年金自体は縮小または消滅させた方が実質的かも知れない。

 

5 さて、日本であれ世界であれ、人類の持続的発展を望むのであれば、まず人口の抑制、少子化への社会的、経済的プログラムをそろそろ明定すべきだろうと思う。日本でいえば、この狭い国土に1億を超える人達が生活している。恐らく人口が半分に減っても、絶対数としてはまだ多過ぎるのかも知れない。ただ、減少過程が一定程度見えてくれば、随分暮らし易くなるだろう。

何も便利な生活がよいとは限らない。大きいばかりが能ではない。豊富な状態が安心に直結する訳ではない。健康な方が楽しい。

最近、新聞か何かでシューマッハー(私の好きなF1の関係ではなく、ドイツ生まれのイギリス経済学者)に触れた記事を読んだが、「スモール・イズ・ビューティフル」だそうである(1971年の福島第1原発1号炉運転開始の2年後、1979年のスリーマイルアイランド原発事故の6年前、既に彼は「原爆より平和利用(原発)が人類に及ぼす危険の方がはるかに大きいかも知れない」とも書いている)。

平凡だが、地球の危機は、①第一次産業を再構築して、②安全な生産技術の革新に腐心し、③勉励して(刻苦することはない)労働を楽しむことで乗り切っていく外ないか、と考えている。

その様に考え、行動する方が金魚や愛玩動物への潜在的な残酷趣味と美意識を磨くより楽しいと思うが。

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