政治における倫理性について

1 毎年3月10日がきて、4月28日、5月15日、6月23日が来る毎に、当時のアメリカという国の残虐性と日本という国の身勝手さ、というより戦争の愚かさに思いを新たにする。

アメリカ軍の空襲は、ナチスのガス室による民族抹殺行為と遜色ない戦争犯罪である。原爆投下に対しなぜ日本は満腔の怒りをもって抗議し続けないのか。東京大空襲にしても、何故その犯罪性を世界に発進し続けて、アメリカの謝罪と反省を求めようとしないのか。そして日本は沖縄を切り捨てた。

 

2 母は私を背負ったまま、下館という茨城の疎開先の田舎から、一晩中真赤に炎上する東京の街をまんじりともせず立ち尽し見続けて夜を明かしたという。アメリカ軍による空襲は、日本の建物の大半が木造であることから、まず周辺を爆撃し炎上させて市民の逃走路を絶ってから、中心に向かって焼夷弾(ナパーム弾)を落としていったと聞く。特定の軍事施設を攻撃するのではなく、人為的に特定の地域に生息する人間も皆殺しにするために空襲したといわれても、アメリカは弁明も反論もできないであろう。

 

3 昭和20年ともなると、日本には飛行機も艦艇も、石油も弾薬も殆どなく、食料さえも払底していたことは、アメリカは知悉していた。アメリカ軍は、日本海軍による真珠湾攻撃を予め情報として摑みながら、これを自国に警告せず、日本軍の先制攻撃を容認し、その後の情報戦でも山本五十六機の航路を解析していたように、日本軍の暗号の多くを解読していた。当時の日本の戦力が最早組織的抵抗力を失っていたことについては、アメリカ軍は重々承知していたことであった。

そのような客観的情況の中で、アメリカ軍は日本全国の主要都市を次々と空襲していった。そして原爆を使用した。非戦闘員の死亡は、歴史上かつてない程の人数となった。

 

4 沖縄戦とその後の占領、敗戦及び沖縄返還の過程は、満州移住・帰還と同様、国家による棄民政策であった。沖縄と満州との違いは、沖縄の棄民政策には、まさに歴史的な民族差別が根底にあったということである。沖縄の人達の気持ちに思いを致すとき、慙愧の念に堪えない。

昭和20年6月23日、日米の沖縄戦は終り、昭和27年4月28日のサンフランシスコ平和条約発効で沖縄は日本に捨てられ、昭和47年5月15日の「沖縄返還」で重ねて沖縄は日本から捨てられたのである。

 

5 こうなると沖縄独立も理念上視野に入ってくる。独立派が沖縄では少数派だというのは、独立についての沖縄の経済的不利益の深刻さと、政治的な困難性ないし現実的不可能性を慮ってのことかと思われる。しかし、少なくともこの数百年間薩摩藩や日本は沖縄を搾取し、一方的に沖縄に犠牲を強いてきたのであるから、朝鮮や中国と同様、日本国はその償いをする義務がある。それが理念的・倫理的原理であり、法的、経済的、政治的原則であろう。

沖縄の人達が遠慮する必要はどこにもない。日本が戦犯国アメリカに遠慮する必要がないのと同断である。

「世論」ということ

1 私は川崎市の宿河原という多摩川のほとりにある高校の出身なのだが、ついこの間まで、近所の旧跡(?)として、高校のある場所を多摩川沿いに更に遡った上流にある分倍河原という所に興味をもっていた。その河原で、北面の武士であった鴨長明が決闘をした、と思い込んでいたのである。

しかしどうも違うらしい。まだ原典は当っていないが、場所は正しく高校のあった宿河原という所であり、出典は徒然草であって、関係者は同様北面の武士であったといわれる兼好法師。ただし、兼好は決闘の当事者ではなく、見物人の一人だった、ということのようである。

これでも、古文、漢文の類いは好きだったのだが、お粗末な記憶である。

 

2 昨日、同種訴訟の係属する各地の地裁の先陣を切って、前橋地裁で、国と東電について、原発事故と地震及び15m余の大津波の予見可能性ありとして、事故の結果やむなく避難するに至った元福島住民に対する損害賠償義務を認めた判決が出た。

 

3 ところで「原発が安全」という神話は、単なる住民のお粗末な記憶違いや思い込みではない。政府や電力会社の意図的な世論操作の結果である。

何が安全なものか、何が経済的なものか、何が環境への負荷が小さい?一部の識者は早くからそのことを指摘していた。私も半世紀近く前にそうした小さな勉強会に参加した。ちなみに、アスベストの害(肺ガンなどの発症の危険)なども、私の記憶では半世紀近く前から指摘されていたし、その勉強会もあった。そうした少数意見はずっと封殺されてきた。

 

4 世論操作というのは、金があれば一定のところまではできる。

例えば、最近のことでいえば、遺伝子組換え(GM)作物とその表示の問題がある。日本に流通するトウモロコシ、大豆などの80〜90%はアメリカ産でその大半はGM作物であって、その加工品であるコーン油、大豆油、ナタネ油、あるいはポップコーンやスナック菓子、そして豆腐、納豆、味噌、きなこなどの日本の伝統食品に至るまでGM作物由来となっている。

 

5 アメリカ穀物協会の幹部は、自国の主食だから小麦をGM小麦にはしないが、トウモロコシや大豆は家畜のエサだからかまわないとうそぶいたそうだ(その実未承認のGM小麦も事実上アメリカの各地に試作研究の過程で流失、交配、繁殖し出しているらしいが)。人間の場合、開発後歴史の浅いGM作物を50年、60年と食べ続けた事例はない。しかし、フランスでは、2012年、GM飼料を与え続けたマウスのガン発生率が異常に高くなったとの研究結果が発表されて物議を醸した。

それでかどうかは知らないが、2012年カリフォルニア州でGM作物の表示義務化の運動が起きた。初期の世論調査では賛成が圧倒的に優勢(単に表示しろというだけなのだから当然だろう)との報道だったが、住民投票の結果は逆転し、表示義務化の法案は否決された。表示反対派のロビー活動費や宣伝広告費は、賛成派とは桁違いだったようである。オバマ政権下のことである。

 

6 アメリカとのTPP交渉の結果、日本でのGM作物の表示義務(実態は非常に不完全ではあるが)も、アメリカ並みになろう。

トランプ政権はTPPの承認は拒否したが、それはもっとアメリカに都合のよい農業政策に日本も組込まれるということである(その最も悪しき前例は、当時の野田政権下において、日本の狂牛病輸入制限について何の科学的根拠もなく、これを骨抜きにされたことである)。

事は食の安全にかかわる問題である。日本政府はこの問題を国家の安全保障として捉えていないのであろうか。単なる経済的な輸出入問題ではない。今日本の食料自給率は恐らく30%台がいいところではないかと思っている。そこに今や質的に危険な食品が日本中の食卓に氾濫しようとしている。日本の食品は質量ともにアメリカの属国化しつつあるのである。もしかすると、戦後間もなく、アメリカからの学校給食への脱脂粉乳の供与によって子供達がかろうじて栄養を補給した時代からの摺り込みの効果なのだろうか。

ブログの再開

この2〜3年身近な人が続いて亡くなり、私的に少々へこんでいたが、昨日身内だけの一周忌を終え、やはり前へ進むしかないと思い定めた。

精神と肉体の相関性をもち出すまでもなく、肉体が衰えれば精神も衰弱して後退することは自覚しているので、ともかく無理しない程度に体を鍛えることにしている。できるだけ階段を使い、山にも登るし、滝にも打たれている。

今のところ年相応の劣化はあるのかも知れないが、体にも頭にも不調はない。

 

ものの考え方は概ね大局的に把みたいと心掛けている。細部の詰めは大切ではあるが、その辺のところは若い人達に努力していただければ幸いである。

 

アメリカではトランプ政権の誕生でかまびすしいが、基本的には収まるところに収まるだろうと見ている。

民主主義の方法論についてはいろいろ考えなければならないことがあるが、民主主義は政治原理的には長い人間の営為の中で蓄積された智恵である。

情況の変化の中で右に左に揺れ動くことはあっても、アメリカの人達の良識は信じてよい。

 

そして何よりも人間が経済的存在である限り、一時的な目前の利害に流されることがあっても、時間の経過の中で修正してゆかざる得ない。時間的には半年から数年というところだろう。

トランプ大統領も今後自説を修正しつつさまざまな延命策を講じていくであろうが、歴史的な流れとしては変わらない。

 

ただ、どうしても看過できないのが地球温暖化対策についてのアメリカの後退である。

対策実行が1年遅れれば、将来の回復に50年、100年を要するかも知れない。温暖化現象は地球上いたるところにその兆候を露にしている。

 

肝臓は臓器の中でも沈黙の巨人といわれているが、地球という人間にとっての浄化装置にも同様のことが言えそうな気がする。

世界中がトランプ政権に対し、地球温暖化対策の実施は喫緊の課題であることを声を大にして警告しなければならない。

アメリカでの超大型ハリケーンや、同様に台風の頻発や進路変化などの異常気象が地球の温暖化と無縁とは考えにくいし、南極、北極の氷床、氷山等々の縮小と生態系の変化は、まさに地球温暖化のなせるところである。一刻の猶予もならないと思う。 

はじめての選挙

1 いつも思い出したように書いてみる。

多分、このブログも1〜2年ぶりか。この間、私的にも公的にも随分いろいろのことがあった。

原発再稼働についても、政治の欺瞞性などといってしまえばそれまでだが、あきれてものも言えない。

 

2 さて、此の度18歳から選挙権が与えられたとの由。それで、私も今回初めて選挙権を行使してみた。全く簡単なものだ。

しかし、18歳から選挙権がある、という現行政治制度にはどうも馴染めない。昔は15歳にもなれば(数え年なので今の13、14歳)立派に1人前の大人で、家督も継げば、切腹(の作法)も1通りできる年である。

現在の18歳はどうだろう。大半は子供のように見える。将来の年金負担者は自分達だからなどという議論もあるようだが、年代別独立会計にでもすれば、それ程の不公平にもならないような気もするし、そもそも選挙権の問題と年金問題とは本質を異にする。

 

3 子供に大人のおもちゃを与えてどうする、という感がどうしても拭えない。現代の大学生で卒業する頃にはもう大人になった、という学生さんらが一体どの位いるのだろうか。大人の知識の有無ではなく、大人の知恵(まともな意味で)を身につけて学校を卒業するのは、現在の学校制度の下では難しそうだ。いってみれば未熟者の素人にさあ射ってみろ、とピストルを与えるようなものかも知れない。況んや18歳(入学の頃)の生徒、学生らにおいておやである。

とすれば、技術(哲学に裏付けられた)や知恵は、学校ではなく自分達で身につけるしかなさそうだ。

 

4 前にも触れたが、民主主義という制度はいろいろと考えなければならない問題が山積している。哲学や政治原理としてもさることながら、「制度」としての検討課題が山ほどある。

世のマスコミは18歳選挙権制度をこぞって好意的に囃し立てているが、無責任であろう。かりに投票率下落の歯止め策(50%を割った投票率による選挙には、最早民主主義の原理的正当性は担保されない。だからこそ今まで積極的棄権行動をとってきた)というなら、それはお粗末にすぎる。考えなしの付和雷同組を増やすだけだし、まさに政治のポピュリズムを進(深)化させるだけだろう。もっとも、では20歳になったら大人か、といえば上記の通りこれまたお寒い限りだが。

結局、大人になるには、いくつになっても勉強するしかない。18歳からの2年間は、年若いだけに勉強の効果は大きい。正義感も一応残っている頃だし、殊に記憶力に強く、吸収力も大きいし、可塑性があり、何よりも感受性に富んでいる。勉強には最適のお年頃である。この頃読んだ本での「追体験」は一生忘れない。

 

5 別に20歳選挙権制度がよいとも思わないが、18歳制度よりはまだマシであろう。

ごく個人的な感覚としていえば、選挙権は働くようになったら年齢にかかわらず、また稼働の有無にかかわらず22歳〜23歳位になったら付与したらどうかと思っている。一定の社会経験を積むことが、まともな知恵を身につける出発となる可能性も高いだろうし、さりとていい年(22〜23歳)して判断無能力もなかろうという、希望的観測の結果の結論である。

再開

1 久し振りにブログを再開する。この間、別に腹がふくれなかった訳ではなく、中断は私自身の怠け癖とその他諸般の事情による。もっとも、こと原発に限らず、この間の政治情況はあきれてまさにものも言えなかったから、とも言えなくはないが。

 

2 原発についての感想はといえば、被害者が実は加害者でもあるという皮肉な真理を実感したというところである。福島県民こそが今回の原発事故の一端を担っている。そしてこれからは、鹿児島県民や福井県民の意思決定も、(自覚していると否とにかかわらず)万一の事故発生の一因を決定づけるのである。

さてそこで自慢じゃないが、かつて選挙権を行使したこともない、という我が政治性について真剣な反省を迫られたとでもいうべきなのであろうか。どうも事はそう単純ではなさそうだ。選挙における棄権こそ沈黙のマジョリティを味方に組み込んだ最も有効な投票行動である、との政治的信念は、有効投票率50%を切った選挙というのは最早民主主義の形骸でしかない、との前提原理によって支えられているが、その前提原理は、この20世紀末からは既に通用しない政治原理になっている。私の政治的考え方が未熟だったのか、現代の政治家やマスコミが余程破廉恥なのか。両方とも当たっているような気がする。

 

3 他人(ヒト)に文句をつけても今ここではしようがないから、自分自身の未熟を反省してみると、ひとつに民主主義という政治思想が誤っているのではないか、との極論に達する。

しかし、これはなかなか与みし難い。民主主義に対置しうる有望な統治形態は、「賢人政治」(少数の賢人による独裁的統治)であろうかと思うが、そもそも「賢人」とは何かという最初の一歩で躓く。そこで結局民主主義における「顔の見える選挙」が相対的有効な政治原理ということになろうか。

顔が見える関係の中での選挙では、そうそう棄権という訳にもゆかないし、棄権は不信任となるから、沈黙のマジョリティとはそれ自体明白な意思表示となる。結局顔が見えるということは、立候補者の人となりを、それがたとえ最終的には建前であり幻想であったとしても、それなりに具体的に認識できたうえでの投票行動を選択できるということである。もちろん、所詮量の問題でしかないのであるが、現状よりはもう少し増な政治が可能になるかも知れない。

 

4 問題は①平等な選挙権を前提にどの様な態様と範囲の選挙母体(選挙人集団)を設定するのか、ということと、②母体が小集団であればある程何層もの代表者による間接選挙が必要になるのではないか、ということから、当初の顔の見える候補者とは似ても似つかない人が最終的な代表者となる可能性がある、ということである。

実は、①の問題と②の問題は連関する。ひとつの解決策として、顔の見える選挙を重視するならできるだけ少数(例えば、何千人とかではなく、せいぜい数百人単位)の中で選挙することと、選挙母体の人数差はそのまま(1票の重さを変えず)各人の1票に倍率(当選者数÷選挙人数)を乗じて、多い順から当選を決定すればよい。何層かの間接選挙については、必要最小限にして、これをセーブすることが可能になる。

 

5 もっとも、この社会が所詮金銭という短期的経済的モメントで動かされている、要は金の問題でしかない、と見限ってしまうなら、顔が見える選挙も建前でしかなくなる。それでは新年早々あまりに夢がないであろう。顔の見える選挙を一度制度化して試してみたい、と思う。

 

6 最後に一言、昔箱根の芦ノ湖で遊覧船に乗ったときのこと、あまりに霧が深く、「白い闇」という感想をもった。これを現在の政治情況にあてはめてみると、「沈黙と忘却の白い闇」という形容になろうか。嫌ですねえ。ただ、時に寺山修司の「マッチ擦るつかの間海に霧深し 身捨つるほどの祖国はありや」の心境にもなる。殊に、家族に病人が出ると心も萎えるが、闘志をかき立て、己れの体と頭を鍛えるしかない。

エネルギーを基準とする価値の通貨化

1 夏休み中、貨幣単位として、円とかドルというような各国の通貨単位に代る世界共通の単位(基準)を創出できないかといろいろ考えてみたが、結局今のところあきらめた。

具体的には「エネルギー単位」という考え方で、そのいくつかの適用の可能性を検討してみた。もちろん、世界共通通貨としての特性の下での考え方である限り、各国の経済力や産業構造等々の目も眩む程の格差を捨象することとなって、そのため「エネルギー単位」といっても、一定の抽象性を前提とする外なく、まさに空理空論に堕すこととなりそうであったが、原理的な基準という意味で、おおいに興味があった。

 

2 とりあえず考えたのは、例えばひとつの物を作るのにどれだけのエネルギーを要するかとして、その積算高をもって、エネルギー単位の数値、即ちその物の価値とするということであった。しかし、この方法は製造業の成果物にはある程度あてはめられても、サービス業や芸術作品、特許などの知的成果物には適用困難ないし適用不能である。

また、第二次産業であっても、埋蔵物探査を含む原材料の調達から、製品化への研究、営業活動、その後のメンテ、廃棄に至る全行程について、エネルギー消費を視点としてこれを評価(値付)するなど、そもそも知的成果の数値化が困難である以上、行程の途中に知的生産活動が介在する限りやはり評価困難であり、殊に芸術作品(商品やパッケージ等のデザインを含め)など主観性の強い成果物はもともと評価不能ということになる。

もちろん一般的な第三次産業における知的生産活動や知的成果物に対し、生産活動時間を通常の労働消費熱量という観点でもって算出すれば、一応の数値化は可能であるが、これだと肉体労働との間の差異をどう組込むか、とか、人件費の地域格差を全く無視すべきか、など次々と疑問はでてくる。

多分、まず定量化できない人間の広い意味の生産活動(特殊技術的あるいは知的生産活動など)を除外したうえで(この除外部分は全くの主観的評価となる)、その余の生産活動について、人工エネルギーの生産単価で基準化するというひとつの方法が思い浮かぶが、それでも具体的なアウトラインの素描にも至らない。ということで、下手な考え休むにしかず、となったわけである。

 

3 なぜこんなことを考えていたか、若干言訳めいて述べれば、原発問題に触発されたとはいえ、将来の人間社会の生き残りはエネルギーと食料問題抜きには考えられない。

そのうちエネルギー問題については人工エネルギーの滞りない供給の確保とその消費の抑制にあり、その為には具体的な物の生産と消費について、その必要エネルギーを数値化して、通貨の基準単位として表示することによって、エネルギー問題の大切さを日常的に認識しておくべきだと思ったことがひとつと、資本主義の主要な原理としての「等価交換」とか「需要と供給」ということを、思考実験的であっても再検討したいと考えたことからである。

実は、もうひとつの人類の課題である食料問題も、生産された食料について生産に要した総エネルギーを価格として数値化することによって、比較的簡明な価値の交通整理が可能となろう。

 

4 例えば、牛肉や魚肉1Kg当り、生産のためどの程度の消費エネルギーが必要だったか、を考えるなら、恐らく牛肉は穀物価格の数十倍位にはすぐなってしまうであろう(牛1頭はその体重の何倍もの穀物を消費する)。ちなみに、動物蛋白質は、玄米や大豆、蕎麦などの植物蛋白質によって、代替可能である(元々、発生史的には人間は猿と同様果食動物だったとされる)。

一方、同じ野菜や穀物であっても、かりに有機、無農薬で栽培しようとすれば、その労力や生産工夫に要する人工エネルギーに換算されるべき人的エネルギーは相当量に上るのであるから、価格が一般農作物よりそれなりに高額となるのは当然なのである。

もっとも、昆虫や微少生物を主食化することになれば、消費エネルギー的には随分と効率化できるかも知れない。安全性の問題は充分解決可能であるが、好悪の感情の問題は残るかも知れない。しかし、これも所詮生存のための必要性ということから、時間的な経過の中で解消されていくはずだ、という程度の問題であろうか。どうも味も素気もない話になってきたが、旨い味を出す調理法はいくらでも工夫できるだろう。

 

5 脱線しすぎたので、もう一度話を戻せば、金本位制の時代はとうの昔に終っており、現代の通貨は各国のいわゆる国力(端的には主として経済力)を担保とする与信制度でしかない。現在の通貨は、国力というような漠とした、ある意味すぐれて抽象化された価値で基準化されている。

そうした現在の通貨制度に較べれば、エネルギー単位で基準化した方が、通貨の実体ははるかに見易くなる。とはいえ、その信用力は、世界共通通貨化したとしても、当面、各国の人工エネルギー生産に対する与信力によって保全されることになるだろうし、最終的には世界規模での人工エネルギーの総量によって制約されざる得ないのだろう(従って、各国による恣意的な通貨総量の「水増」などは、原理的に無理)。その意味でも、少なくとも人工エネルギーの無駄遣いは多少なりと回避できるように思われる。

 

もう少し時間をかけて考えてもよい課題のような気もするのである。

原発再稼働について

少し時間が空いたので、久し振りに書いてみます。

1 さて、政権交替後、いつの間にか原発に対する姿勢も問題意識も変化(後退)しているようだ。日本人に特有の歴史的国民性なのか、高度経済成長期を経験した現代日本の社会的文化性なのかは知らないが(多分2つながら様々の要因による複合的理由なのだろうが)、何とも面妖な話である。

ちなみに、鴨長明は天災について、人は無常観からこれを受容し、やがて忘れていくことを述べている。何となく喉元過ぎれば熱さを忘れるかのようであるが、福島原発(事故)は冷温停止、収束には程遠く、喉元どころか口腔内さえ過ぎてはいない。環境に日々多量の放射能を今もたれ流している。明らかな人災であるにもかかわらず、少なくとも今のところ法的責任を科された人もいない。きっちりした総括もできないうちから、事故は風化していっている。何故こんなに皆健忘症気味にお人好しなのだろうか。

 

2 情況の表面を現象的になぞっていけば、政権の交替によってまたぞろ「電力供給不足」とか「生産の停滞」あるいは「電気料金の大幅な値上げ」とか「環境の汚染」などという亡霊が跋扈しだしたということになろうか。

もう一度くり返すが、生産工場の電力不足とか生産停滞とかが現実化することはない。
企業は既に、クリーンで安価な最新のガス・コンバインドサイクル発電などによって、電力会社に売電もできる程の自衛措置は整えている。電力会社は、原発再開の為、老朽化と称して稼働可能な火力発電機を敢て停止させているのである。従って電力不足は虚言である。

円安と長期継続契約による燃料費の高騰のため電気料金を値上げせざる得ないとの電力会社の主張も、問題が多い。最大のトリックは経費の中身にあるが、それのみでなく、経費増に伴う一定の利益加算が電気料金として認められている料金算定のシステムである。ある意味経営努力の必要性が薄れる。いずれにせよ、一過性の電気料金の値上げはあっても、長期的にみれば、実質的に政府等による原発関連の公的(税金による)補助分や事故対策・処理費用・廃炉費用等をも原価経費に含めると、トータルとして原子力による発電コストは異常に割高となる。もちろん、別に火力発電を石油に頼る必要もない。天然ガス利用の方が石油より安価に入手できるし、NOxやSOxなども石油よりずっと少ない。

環境汚染というなら、原発事故による汚染の方がはるかに深刻である。

これらの諸事実はそれぞれの専門家によって既に論証がなされているところである。

 

3 ところで、先日新聞を読んでいたら、経産省の総合資源エネルギー調査会基本政策分科会委員である高名な評論家に対する原発再稼働についてのインタビュー記事があった。その前段の主張は、要するにエネルギー戦略を考える前提として世界の原子力情勢に対する正しい認識が必要であること、2006年以降日本がアメリカの原発メーカーを買収などしたことによって日米は「原子力共同体」の関係を築いたこと、その結果、日本が脱原発を唱えることは「甘えの構造」と言え、「原発ゼロ」を選ぶなら(日米同盟関係の変化も辞さない)相当の覚悟が必要だ、というものである。

世界情勢の正しい認識の必要性というならその通りであり、日米の「原子力共同体」関係というのも、若干の限定を加えれば(実質的には米軍への原子炉の提供という主に軍事的関係における日本の肩代りということかと思われるが)、その当否は別にしてそうした客観的状況にあること自体は同意できるところである。しかし、「その結果」云々以下については、到底容認し難い。

まず、アメリカ原発メーカーから東芝や日立がその原発部門を買収したことなどに関し、ババをつかまされたのは日本のメーカーだという観測があることや、アメリカではスリーマイルズ事故以降30数年以上も新規の原発が稼働していないことなどからは、アメリカが現行の原発に対し、経済的には既に見切をつけていることが明らかであろう。後は、主に軍事的な艦船等の動力としての原発利用ということになろうが、既述の評論家の先生も、ボカした表現しかしようとしない。端的に日米軍事密約があるからといった方が、より分かりやすかろう。しかしそうなると、まさに「由らしむべし、知らしむべからず」という、日本の伝統的な政治手法に反するということになろう。現状は旧い政治手法そのものであり、福島事故以前の原子力行政の復活でしかなく、本質的に誤っている。軍事的にというのであれば、現実的対処の方法はいくらでもある。それを、日米同盟の破壊だとか、それなりの覚悟などというから、話がおかしくなる。あまつさえ、「中長期的なエネルギー戦略で原子力をどう位置づけるのか、明確にすべきだ」などと、もっともらしいことを言い出されると、政府や電力会社に代って国民を恫喝し、目眩ましをしているにすぎず、何ともそらぞらしいという外ない。中長期的には、少なくとも核廃棄物の処理が解決しない限り現行の原子力発電による電力エネルギーは、退場させるしかない。後は天然ガスの手当である。

 

4 本質的にいえば、現行の原発システムによる限り、事故は不可避である。現行の原発が大規模、複雑系だからである。人間は神様ではない。設計段階か、設置段階か、あるいはオペレーションの過程であるかを問わず、人的ミスをゼロにすることはできない。

のみならず、原発稼働による副次生産物(核廃棄物)に対する安全・有効な対策は、未だ科学的な解決を見ていない。このままでは、ただひたすら地球上に核廃棄物を貯め込むだけである。一たん生成された核廃棄物は、人間の歴史の尺度でいえば殆んど永遠に残存するのである。原発による核廃棄物のうち、例えば、ヨード129の半減期は1600万年、セシウム135は300万年とのことだそうだ。そもそも「半減期」などという概念自体、計量的な数値規準としてはともかく、これを政治や社会現象の中で科学者が不用意に使うなら、それは科学者による勝手な用語、用法であって、誠に胡散臭い。

 

5 既存の原発システムに頼る、言いかえれば電力各社の経営救済に走ろうとするからいけないのである(ちなみに何故電力会社が原発即時廃止に消極的かといえば、主として会計上原発関係資産の一括廃棄は貸借対照表上多額の純資産が一時に減少するからである)。

かりに、原子力発電方式を即時全廃しないとしても、既存の(大規模、複雑系の)原発は全廃のうえ、過渡的・一時的にはウラニウムによらない小規模、単純系の原理的、技術的に安心な原子力発電は可能である。この場合核廃棄物も圧倒的に少ない。もちろん、基幹電力としての原子力発電という呪縛からは、即刻解放されなければならない。補完的な地産地消型の液体トリウム原発が、今のところせいぜいの妥協であろうか。

地産地消型であれば、送電網の整備されていない海外各国からの需要も、意外と多いと思われる。何よりも安全であるし、核廃棄物も少ない。

 

6 話は元に戻るが、既存の原発というゾンビの復活を許容する日本の土壌の最大の欠陥とは何か。

個人責任を追及せず、曖昧にしてしまうという歴史的な日本人の体質こそ、それである。

近くに例をとれば、日本は今次の大戦においてもアメリカを中心とする戦勝国による戦犯法廷は経験したが、日本人による戦犯追及は全くなされなかった。300万人もの大量の死者を出したにもかかわらず、戦争犯罪者に対する国内法廷による処断はなかった。東京裁判は、あくまでA級戦犯の場合平和に対する(天皇を除く)ごく一部の軍人、政治家を戦勝国が裁いただけである。B、C級戦犯にしても、外国人に対する戦時国際法違反としての戦争犯罪を対象とした(もっとも、誤判は相当多かったようだが)。日本は、軍人か否かを問わず、国際人権法(として既に国際的承認を受けていると推認できる原理規範)を基に戦争犯罪として、事後的な手続法を立法してでも、重大な一定の範囲で戦時下の人権侵害行為の理非を裁くべきであったし、戦争中の軍人らによる国内法違反については優先的に処罰して、その個人責任を明白にすべきであった。余談になるが、アメリカによる非戦闘員を対象とする無差別空襲や原爆投下も戦時国際法違反として指弾すべきであった。

 

7 この意味で、公害犯罪についても、そして原発事故についても、個人の責任を明確にすべきなのである。集団の中に個人を紛らせてはならない。福島原発事故をみていると、殆んど未必の故意ではなかったかとさえ疑わせるような事象もある。少なくとも認識ある過失の責任は問えるのではないかと思う程である。

実は、その責任者として東電幹部や監督官庁の中心的な役割を担った上級官吏、科学者・技術者といわれる専門家、一部マスコミの担当者らだけでなく、「被害者」であるはずの受入側の地元公共団体の長や議員らをも視野に置くべきだと思っている。彼らは、被害者であると同時に加害者でもあった。

殊に最近の、既存原発の再開を要請、容認する地元の知事、市長、地方議会の人達の言動をみていると、一層その感を深くする。また、地元住民に対しては、かりに事故を免れたとしても、今後数十世代に亘って使用済核燃料や放射性廃棄物を地元だけでかかえ込む覚悟があるか、を問いたい。

いずれにせよ、個人責任を明確に糾弾してはじめて、再犯は予防されるのである。

 

8 実際には、市民法原理としての罪刑法定主義の下では、戦争犯罪であればともかく、抽象的な国際法だとか自然法原理などをもち出しても、個別具体的な処罰など非実務的であって、現実には無理である。しかしなお、それを承知で、可能な限り現行法を駆使して個人の犯罪事実に切り込んでいくべきである。少なくとも、「誰が犯罪的な行為をしたか」までは明確にしておくことが肝要である。そうでなければ、地震国の日本は既存の原発でまた同じ過ちをくり返すであろう。それだけは、子孫のためにも、地球のためにも、絶対に回避しなければならない。

 

9 私達は便利な生活に慣れすぎている。その結果、無用に人工エネルギー(電力)を浪費しすぎているのである(もっとも、電車の中の間引消灯は、「節電」に名を借りた実質値上ともいえ、二重にいかがわしく、車内読書を楽しみとする老眼の乗客を無視した行為である)。

そして何より、現代人は物質文明に毒されている。何故人にとって物が必要か、どこまで必要か、物を得るために何を失っていくのか、もう少し立止まってゆっくり考えてみればよい。「物」を「お金」に置き換えても同じである。

エネルギー問題、就中、原子力発電の問題はよく環境問題に関連づけて論じられる。しかし、これまた、いかがわしい以上に犯罪的である。

地球温暖化と二酸化炭素の増加との関係は、近時科学的には否定的見解が強いようであるが、その点を措くとしても、原発の地球環境に与える悪影響は、大小の事故を想定するまでもなく、火力発電の比ではない。事故が発生してからでは遅すぎることはもちろんのこと、無事故で操業を終えた原発であっても、その廃炉の問題や核廃棄物の問題は、地球に対する大きな負荷なしには処理できないのである。

結局私達は、できる限り正確な知識を集め、できる限り物事の全体を長い目で考えるしかない。一人一人ができる限り賢くなるしかないと思う。

2012年雑感

年末で慌しく時間に追われる日々を惰性でやりくりしている感もないではないが、前回から随分期間も空いたので、簡単に現在の所感を総括しておこう。

 

1 まず、知識(人)と責任ということ。恐ろしいことではあるが、知識を得るということは、それだけ自己及び他者に対する責任が加重されるということである。竹林の七賢人は堕落でしかない。油断すれば、老荘も然りであろう(個人的には魅かれる思想だが)。

イタリアで、2009年のイタリア中部大地震直前の安全宣言に関与した地震学者ら7人に禁錮6年の有罪判決が下されたとのことである。世論の動向もその後の対応や評価も知らないが、どうも関係学界では世界的に相当不評らしい。具体的経緯がわからないので何とも言えないが、原則的に考えれば、それ程失当な判断とはいえないようにも思える。

自然科学であれ社会科学であれ、予知や推論の不確実性に対し、専門家や技術者は真摯であってほしい。それが知識人の責任である。況んや、原発村のスポークスマンでしかなかった科学者は、未必的故意の犯罪者もいたのではなかったか、とさえ疑われる程である。

マスコミもまた、専門家責任という意味で同様である。

 

2 少なくとも既存の原発は、技術的には未完成の失敗作であり(但し軍事的には多量のプルトニウムを手に入れたが)、経済的には完全に破綻した発電方法である。コストから言えば、太陽光発電1kwの売電価格が42円(近く多少下がるが)などという比ではないし、その実質的発電効率は低い。しかし、何よりその安全性(廃棄物処理も含めて)の脆弱さには、あきれる程である。

別に吉本教の信者ではないけれど、もともと技術出身の思想家であった彼は、3.11の後も原発必要論者であった。思想家としての過去の自己の言説に対する首尾一貫性ということよりも、吉本隆明は、技術的に既存の原発とは異質の原発を想定していたのであろうか。

 

3 多少原発について勉強しているうちに、4S炉は措くとして、燃料にウラン235の固体燃料を使わず、燃料をウランからトリウムに代え、かつ固体から液体の熔融塩とする原子炉があることを知った。炉の構造もシンプルで、小型を前提とする。ウランとは異なり、トリウムは偏在せず世界中にあり、埋蔵量も充分にある。炉はほぼ核燃料自給自足型で、制御棒もあまり必要ない。全電源を喪失しても、「崩壊熱の暴走」はなく、「核分裂連鎖反応を止め、核燃料の崩壊熱を冷まし、放射性物質を閉じ込める」という。

プルトニウムは殆ど生まれないし、(従って軍事的には殆ど価値がない)、若干のプルトニウムも炉内で有効に燃やせるのだそうだ。核分裂反応生成物質の除去も容易という。熔融塩は、物理化学的特性が予測可能であり、また、高温でも常圧で使用できるので、炉も常圧装置として組み立てることができる。要するに諸々と安全というのである。ただ、小量とはいえ核廃棄物は発生する。もっとも、燃料塩内を循環しているうちに次第に消滅させたり、科学処理して高速の中性子により消滅を図るという。よくわからないが、核廃棄物の完全解決についてはどうだろうか。

熔融塩炉については、既にアメリカのオークリッジ国立研究所で小額の資金と人数でもって1960年から本格的な実験炉建設が進められ、26000時間の継続運転で事故なく全実験を終了したが、冷戦時代の中で無視されてきた。しかし、日本ではその後実験炉ミニFUJIを経て、トリウム熔融塩炉FUJI-Ⅱへと建設計画が立てられているとのことである。日本、チェコ、アメリカなどを中心に、世界各国による国際協力が約束されているという。

 

4 一方で、石油をはじめ化石燃料の採掘可能な埋蔵量の数値は次々と更新されてきており、今後数百年は資源供給上の問題はないとされる。殊に、シェールガスの存在が大きいようだ。このことは、単に自然エネルギーによる効率的な発電技術の確立と普及には充分な時間的猶予があるということを意味するに止まらない。火力発電技術の革新は目覚しく、現在は天然ガスを燃料とするガスタービン発電と蒸気タービン発電の組合せによる(ガス・コンバインサイクル)高効率、高出力の火力発電が既に普及し出していて、電力会社以外の発電事業者などのいわゆる自家発電が、3.11後急激に増加した結果、原発ゼロでの安定的電力供給が持続可能となっているという。しかも、天然ガスの特質は全くクリーンでかつエネルギー密度が高いということである。

いずれにせよ、既存の原発は、技術的にも、経済的にも最早や過去の遺物と化しているといってよさそうである。

 

5 今回の衆議院選挙の有り様を踏まえ、フランスの思想家ジャック・アタリが、何故日本の政党の中で、人口増なり人口減を政策目標としてかかげる政党がなかったのかと述べているそうである。ここでの人口増は、積極的な移民受け入れ政策である。私としては、最終的には適切な人口減が課題と考えている。

その過程では、移民受け入れも含め、様々な政策的バリュエイションはあると思うが、結局、エネルギー問題は地球規模での適正な人口によって解決するのが、最も自然である。それが、地球上の全生命体や自然を含む他者に対する人間の責任であろう。人間は、地球上最も高度な知識と知恵を得ることとなった唯一の生命体だからである。

少子化と地球及び世界環境

1 先日、金魚を使った展覧会様のイベントを観にいった。

沢山の数の金魚を工夫された大型の容器に密集させて姸を競うというところが、メインの展示であった。サブ的に(メイン会場へのアプローチを利用して)、珍しい種類の金魚を数匹小さな容器に入れて、数十秒おきに照明の色を変化させて観賞させるという、よくわからない催しだった。恐らく芸術家気取りの2流の自称アーティストによる構成なのだろうが、夜だというのに結構な人出で混雑していた。印象は、きれいだねという感心と、それ以上に残酷だなあという嫌悪だった。水族館などの比ではない狭い中にこれだけの数の金魚を泳がせて、水槽の外の水流循環装置で酸素や給餌の仕掛があるのだろうが、どうも感覚的にはなじめない。

そもそも、金魚という観賞魚自体、人間の身勝手と残酷性の象徴なのかも知れない。

 

2 話は変るが、その昔、私が「少子化対策」という言葉を初めてきいたとき、その対策の内容は人口を減らすための政策立案だと思った(もちろん一定の人口減少に対する政策対応を射程に入れたうえでのことであろうとは思ったが)。この思い込みによる誤解釈については、真面目な笑い話として時々話題にしてきた。

この地球上に、それなりの大型動物の生物種がこれ程多数繁殖跋扈したのは、長い地球の歴史の中で多分現在のホモ・サピエンスだけだろうと思う。蝶にせよ、鼠にせよ、増えすぎると何故か集団自殺に走ることがあるという。生物の遺伝子には、一定の条件下で目覚める自殺因子でも組み込まれているとでもいうのだろうか。

それはともかくとして、この状態で地球上に人類が増え続けると、果してどうなるのだろう。殊に医学の進歩と食料事情の改善は、人間の平均寿命を著しく引延ばした。先進国では人口が減少に転じつつあるといっても、その比ではない程発展途上国では人口が爆発的に増加している。恐ろしいこととみるか、好ましいこととみるか、局面によって人それぞれだろう。ただ、長期的にみるならば、人類あるいはひょっとすると地球そのものの滅びへの不可避的な要因となっていくのか、とも考えられる。

実はエネルギー問題(人間生体の活動エネルギーの供給という意味で食料問題を含む)といっても、最終的には人口問題に帰するのである。

 

3 急激な老齢化現象の進行がいけないという。しかし、この議論は、生産人口の急速な減少を危惧しているだけのことであろう。

まず最初に期待してよいことは、技術革新による労働生産性の向上である。次に、人口の半分を占める女性の存在は大きい。確かに女性の社会進出はめざましく、昔日とは量的にも質的にも比較のしようがない程である。それでもまだまだ女性の活躍できる場は多い。特に子育てが一段落しての女性の社会復帰は、経済的にもイデオロギー的にも不充分と思う。日本の封建遺制の残滓であろう。

忘れてならないのは、労働の担手として、長寿化に伴う「老人」の活用である。平均余命の増大に伴い、かりに65歳定年としても、健康で働くことへの意欲ある老人は少なくない。人間、働けるうちは働けばよい。もちろん、老後をのんびり暮らしたいというのも自由であるが。いずれにせよ、老人パワーを侮ってはならない。働く能力と意志のある老人は少なくないはずだし(団塊の世代の元気さを見よ)、彼らを重要な労働生産の担手としてカウントしない手はない。私の知る限りでは、「老人」といっても、働けるのに子供(青壮年層)の世話(働き)に依存したいなどと思っている老人は少ない。

現実には、老人に限らず、若者であれ、女性であれ、働きたくとも働く場がないというだけのことである。

 

4 年金制度は既に破綻している。当初の制度設計が誤っていたからであり、制度のための組織の維持に経費をかけすぎたからであり、資金運用の素人がその道のプロの甘言に欺されたからである。

1人の老人を何人の若者が支えるか、などという抽象的、目眩まし的な議論は、あまり益がないと思う。

いっそのこと、セイフティーネットを充実させ、年金自体は縮小または消滅させた方が実質的かも知れない。

 

5 さて、日本であれ世界であれ、人類の持続的発展を望むのであれば、まず人口の抑制、少子化への社会的、経済的プログラムをそろそろ明定すべきだろうと思う。日本でいえば、この狭い国土に1億を超える人達が生活している。恐らく人口が半分に減っても、絶対数としてはまだ多過ぎるのかも知れない。ただ、減少過程が一定程度見えてくれば、随分暮らし易くなるだろう。

何も便利な生活がよいとは限らない。大きいばかりが能ではない。豊富な状態が安心に直結する訳ではない。健康な方が楽しい。

最近、新聞か何かでシューマッハー(私の好きなF1の関係ではなく、ドイツ生まれのイギリス経済学者)に触れた記事を読んだが、「スモール・イズ・ビューティフル」だそうである(1971年の福島第1原発1号炉運転開始の2年後、1979年のスリーマイルアイランド原発事故の6年前、既に彼は「原爆より平和利用(原発)が人類に及ぼす危険の方がはるかに大きいかも知れない」とも書いている)。

平凡だが、地球の危機は、①第一次産業を再構築して、②安全な生産技術の革新に腐心し、③勉励して(刻苦することはない)労働を楽しむことで乗り切っていく外ないか、と考えている。

その様に考え、行動する方が金魚や愛玩動物への潜在的な残酷趣味と美意識を磨くより楽しいと思うが。

合理と倫理

1 原発事故に関する国会事故調査委員会と政府事故調査委員会の報告が出揃った。新聞報道等でその一端を知る程度だが、要約を読む限りでもそれらの相違もあって、興味深いところである。しかし、いずれにせよ、事故そのものは全く終息もしておらず、原子炉内部の調査もできない状態では、どこまで事故原因が解明できたかは疑問である。もっとも、くり返すが、このフクシマ事故は、その発生も拡大も、まさに人災である。地震に対する備えも、津波への対策も、明かに不充分であった。

 

2 さて、ここから先は法律家的議論になるが、犯罪事件であれ、人災事故であれ、その実態や原因を関係者に対する質問によって究明する場合、ごく単純化して言うなら、2つの調査手法がある。ひとつは、個人責任を問わない(免責する)から正直に真実(と本人が認識する事実)を答えよ、とする調査手法と、必ずしも個人免責を保証しない手法である。日本ではあまり一般的ではないが(但し、警察捜査などでは横行している)、前者の手法をとった場合でも、過去の事実と記憶との齟齬とか、別の動機による意図的な偽証は当然予測される。それでも、恐らく前者の手法による方がより実態解明に近づく場合が多いと思われる。

もうひとつの視点として、原発事故のような被害の甚大性を本質的特性とするような事故案件では、二者択一的 な判断ではないにせよぎりぎりの選択として、原因究明より事故の再発防止こそ最重要課題とする考え方はありうるところである。ただ、誤解のないよう付言するが、原因究明がよくなされてはじめて、事故の再発防止がよくなされうるというのが、当然の真理である。

しかし、それでも個人責任を免責する方法をとるのか否か、いずれにより力点を置いて調査するかの問題は、個々の具体的究明課題によって、常に潜在する調査方法上の問題としてありうるところである。

 

3 結論的にいえば、必ずしも個人責任の追及を目的とするものではないとする政府事故調の姿勢はおかしい。

人災による事故の再発防止は、関係した個々人の責任を問い、一定のサンクション(制裁)を課すことが必要と思う。

恐らく日本人の民族的特性なのかも知れないが、個人の責任が集団の責任の中に溶融され、曖昧化されていく傾向が強い。何故そうなるのか、いろいろ考えてみるが、よくわからない。その点は措くとしても、フクシマ事故でも、人災である限り、関係した各個人の責任をできる限り明確にすることは、やらなければならない作業である。

それは不完全な結果しか期待できないかも知れないし、多分不公平な結果を生むことになるかも知れないが、それでもやらなければならない。そうすることによって、事故の再発は相当程度防ぐことができる。

 

4 民事あるいは刑事上の時効は2の次でよい。

例えば、CIAのエージェントであった正力松太郎(このことはアメリカ側の資料の存在によって明白)が何故原発を日本に導入しようとしたか、どの様に日本の世論を誘導したか、原発と原子爆弾の原理的同一性と遅発性原爆である原発制御技術の不完全性をどの程度認識していたか、残存する資料から究明するのもよい。

それよりもどうしてもやらなければならない個人責任究明の対象者としては、原発の設置、維持、管理、調査等に関与したいわゆる専門家といわれる人達である。なぜなら、彼等こそはまさに「専門家」だからである。彼らに対する責任の追及なしにフクシマ事故は収束できない。科学はその専門性故に政治的に利用され、専門性故に無批判な信用力を生む。人文科学であれ自然科学であれ、科学や技術は、決して無色透明ではない。知識や科学は人が使ってはじめて実体化する。従って、これを用いる人間の価値観によってのみ現実化する。

専門家はこれを利用する政治家や経済人より罪深いことがある。政治が「手段の体系」である以上、政治的言動に対しては、常にある程度のうさんくささを感じとり、一定の懐疑的検証回路を働かせることができる。しかし、政治的手法として「科学的」専門性をもち出されると、門外漢には手も足も出なくなる。

科学(専門性)は「放っておけば」常に広い意味での政治に従属してきた。やや乱暴な物言いだが、経験的真実である。残念ながら、歴史的事実である。

実は、政治的関係においては、何もしない、何も選択しないというのもひとつの政治的選択であって、政治的効果を生んでゆく。その為、専門分野に職として身を置いた者は、好むと好まざるとにかかわらず、その専門分野について、全人格的選択を常に意識していかなければならないのである。

私達は知識や科学における倫理性ということを肝に銘じなければならない。だからこその「学の独立」なのである。人は放っておけば易きに流れる。
5 さて、話は変るが、今現在、日本で原発がなければ日本の産業(経済)ひいては日本人の生活が成り立たないという議論がある。これは程度の問題であり、合理性の問題である。しかし、フクシマ事故において今私達に問われているのは、生活の問題ではなく、命の問題であり、原発の倫理性の問題である。合理性の問題と倫理性の問題とを同じ平面で論ずることは、判断を誤らせる(もっとも、量の問題も程度を極端に超えてしまえば、質の問題に転化する場面がある。要は、価値の階層性の問題に尽きるのであろうか)。何であれ、利便(不便)性については、我慢できるところまでは我慢してみるという判断は、結構有効と思う。

倫理性の貫徹とは、ある意味そういうことである。

 

6 原子力規制委員会の人選が話題になっている。
末端(担当職員)まで含めて「人」が変らなければ、やはり従前と本質的には変らないのかと思う。人を総入れ替えしない限り、所詮、広い意味での政治の具になる可能性の方が高い。

最初の疑問は、委員はなぜ専門家なのかということである。少なくとも正・副委員長及び委員の過半数は専門家でない方がいい。本来、それぞれの分野の専門家集団は、委員(会)の助言者として参加してもらった方がよい。専門家とは、特定の分野における専門的知見を有する人であって、部分を全部集めても全体にはならない。余談になるが、近代合理主義とは、方法論として、全体を細分化してその分析結果を集積すれば物事の全体になるはずだ、という信仰に支えられている。そうした思考法も大切であるが、それだけでは全体真理とはならない。
7 多数の命と将来の地球の環境にかかわる重大な事項については、より慎重に判断する外ない。それには、より多面的な検討が必要なのであって、原子力とか、地震とかの特定の分野における判断、あるいは経済とか生活という限定された思考方法による意見で、こうした重要な事項が決定されるのは困る(むしろ原始力-人間本来の始原的価値判断で決めたい)。究極のところの価値原理でいえば案外単純で、何を言おうとどんな行動をとろうと一定程度容認するが、自分の行為で他人に迷惑をかけてくれるなということでしかない。多数の意見は意見として、命にかかわるような重大なことは、多数で決定してくれるなということである。

もう少し視点を変えていえば、物事は多面的にみるしかないということである。このことは、まさに合理の問題なのである。

さて、知識をもつということは、それだけ責任を負うということなのである。そしてこれは倫理の問題であると同時に、合理の問題なのである。なぜなら、知識(技術)の欠陥はその知識のある者こそよく理解できるからである。